我々は事実や証明を導き出そうとする際、
よく「客観的な立場で見ましょう」とか
「それは客観的に見てもおかしいよ」とか言いますよね。
客観性は誰の価値観も入ってない
偏見のない意見(真実)であって、
説得力があると信じているのでしょう。
しかしあらゆる「客観性」なんて我々人間の
「主観」から認識し、判断したものに過ぎません。
どんな情報も入口は「わたし」から。
つまり「主観」において考えられた「客観性」ってことになります。
故に前提は常に「自己中心」であって、
どんなものでも客観性は担保しませんよ、
というのが僕の考えです。
わたしとあなた。君と僕。
それぞれ応接する世界は違う。
今日はそんなとこから(゜゜)
さて、この前提に従えば社会に広がった通念や
ステレオタイプは独断と偏見がたまたま
「社会」に合致しただけのものだというのが分かります。
キラキラしたいとか承認されたいとか
表現したいとか、やりたい人がやればいいんです。
しかし、それが社会的な現象となり
さもそうすることが真実のように認識されると
つい、やってしまうわけだ。
それを止めるが本当の「自分らしさ」なのに
止めてしまえば「自分らしさ」が消えると思ってる。
客観性は常に命令系(べき・すべし)を
引き連れてきます。自分の中に少しでも
「違和感」があったら、疑ってみていいでしょう。
☞☞
さて、そんな客観とは科学の領域。
我々はそんな科学からの説明に触れると
なんだか腑に落ちない感覚に捉われますね。
まるで科学の説明するものが本当で、
我々が感じる素朴な日常感覚が偽物かのよう。
例えば、地動説と天動説。
我々からすれば、どうしても太陽が西から東へ
回っているように見えますが、天文学者(科学)
の説明は地球が太陽の周りを回っているのです。
ここにどうしても超えられない対立がある。
理屈は分かってても、感覚的には分からないでしょう。
まあ、この違いで悩む人なんていませんが、
世界解釈と我々の感覚の世界は相容れないものなんです。
☞☞
ちなみに僕はそんな上記のような
日常の素朴な感覚は「間違っている」
とは思ってません。
「そんなわけないだろ、実際違うんだから」
と思うでしょうが、そうじゃない。
なぜならそれは意識の方向が違うだけのこと。
例えば地球にいるからそう見えるだけで、
これが宇宙船から見れば、どっちも動いてます。
つまり「客観的真実」ではなく、「現状の主観の場所」から
説明している「いち現象」じゃないの、と。
(めんどくさく書くと)観測する座標によって
認識する現象はコロっと変わるんです。
この視点から見れば、どっちも動いてる。
そんな世界を外的なものとしてみるか、
それとも内的なものするか。それは人それぞれです。
ただ、客観の世界は外に向かい、計測し・測定します。
反面、感覚である主観の世界は内に向かい、潜在・深化するのです。
つまり意識の運動が対立しているのであって、
意識自体の出発点は変わってない。
出発点は常に自分という「一元的なもの」。
ここだけは絶対に変わりませんよね。
相対性と呼ばれるこの世界も
自己の中心(一元論)から外に向けられた意識が比較しています。
それで背が高いだの鼻が低いだの
貧乏だのと、外側の意識に
「一喜一憂」しているのは、
まさに内側へ向かう意識です。
そんな「一元論且、二元論」
という超克(あいだ)の場所に
僕はいるんじゃないですかね。
長くなったので、次回に続きます(゜゜)
長くなったので、次回に続きます(゜゜)
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