2016/10/06

客観キック




前回に続き二回目。
一回目はこちら




原理的に全く異なる性質や振る舞いをしている
我々の精神、こころが織りなす動きを把握しようと
ビッグデータは日々、頑張っているようです。




それはまるで「π」に出てくるマックス・コーエンのよう。
あの映画は「世界に存在する事象のすべては
一つの数式で理解できる」という考えに
取りつかれた主人公を描いていたのですが
今の市場を見れば、そのクローンたちが溢れていますね。




画像参照:映画「π」




(この命題はあまり深く立ち入らないようにしていますが)
そもそも「すべては一つの法則に表れる」という考え自体、
誰が、どうやって判定出来るのか?は証明できません。



「これだ!」と言うのは誰だって言えます。
問題はそれを「間違いなくこれだ!」と証明するのが
不可能ってこと。



なぜなら我々の精神活動は物質世界の
ような厳密な因果関係は全く成り立たないから。



例えば、一つの事実(病気になった)でも、
人の反応はそれぞれ違いますよね。
場合によっては正反対の反応さえします。



ある困難に対し、苦しむ人もいれば喜ぶ人もいる。
奮い立つ人もいれば、逃げ出す人もいる。



その認識によって結果はガラリと変わる。
仮に同じことをやったとしても、そうでしょう。



そうなると事実は事実として意味をなさない、
反映するかどうか、関係しているかどうかなど、
原理的に解明できないのです。




☞☞☞



精神、こころは相対的な方法(外部)では掴めない。
掴むには内部運動をそのまま捉えるしかないと
個人的に思ってます。



それが直接的な経験からくる「直知」、
unreveが暗黙知と呼んでいる絶対的な方法です。
つまりバランス感覚を身に付けるとは
変動(揺らぎ)の中に全く別の認識を得ることなんですね。



よく訓練された暗黙知は本当の現実を認識します。
それはよく訓練された無私と同義でしょう。



ちょっと面倒に書いてますが、
「カンやコツ」は知るのではなく感じるもの、



それは常に主観からくる現実対応です。




「後記」




ふわふわと揺らぎ、遊ぶ精神に
無理やり物質世界の法則を当てはめようと
するのはまるで水を定規で測るかのよう。
そんな「測る(測定)」の志向性の時代は終わりました。



脳科学者は脳が分かれば、
心が分かると言いますが、そうじゃない。
心理学だって似たようなものです。
心が分かっても脳が分かるわけじゃないでしょう。



つまり測れないものを無理矢理
測れるものに変換しているだけのこと。




測る、計る、図る、量る。




今日は仕事がはかどった、はかどらなかった。
プロジェクト同様、明確な目標に対する進捗。



それが精神の分野にまで及んでいるのが
近代ですが、古来この国は心を計測しませんでした。
つまり「測らない(はかない)」精神だったのです。



どれくらい好きか、ずっと好きでいれるか。
なぜ好きか、どっちが好きか。




好きを測ることなかれ。
カウンセラーは精神のプログラマーだと
自惚れる事なかれ。





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