今日は「あいだ」の哲学論考(゜゜)だよ
あんまり好きじゃない方の「あいだ」
さて、カナダの評論家である
ノースロップ・フライは教育の目的を
「平凡な社会に適応しない人間をつくる事だ」と言います。
なるほど、何かを学ぶということと独自に
何かを身に付けることは同義なのでしょう。
非凡性の習得が平均、平衡からの
乖離であるならば、本来は平均からどんどん
離れて行かなければいけませんよね。
もちろん、それは「自分勝手」の
免罪符ではなく、「独自の問いを持ちなさいよ」ってこと。
社会性を持った我々は共存の枠から
逃れることはできない以上、多様な社会には
「共有地」もまた必要不可欠ですからね。
そこで僕は部分と全体を内包した
「あいだ」の空間概念を取り入れています。
境界線、あいだ、揺らぎの場、遊びの場。
まあ、呼び方なんて何でもいいですね(笑)
例えるなら、垣根のようなもの、庭のようなものです。
以前「学びの庭」と言われていましたが、
それは何かを行う為の神聖な場所であるという
意味が込められていたのではないでしょうか。
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外部と内部を繋ぐ、境界線の「庭(は)」。
その境界線に「自然」を取り入れているのは
空間の概念が非自己にあるからでしょう。
これが堀や塀といった人工的な境界線では
異質を排除する城壁となってしまいますからね。
庭先(場)で起こる事象は異質である以上、
攻撃するときもある。
そんな時、この自然領域は
防壁のような役割を持ち、逆に内部を
豊かにする異質である場合は間口を開き、
受け入れる、と。
それはまるで人体の持つ免疫のような「非」の構造。
非はアンチ(反)ではありません。
変動する現実に対応するため、
境界線は常に揺らいでいるんですよね。
しかし、それによって対象は動的平衡となります。
つまり有機的なものとなるのです。
「後記」
社会的に一つの成果を挙げた実行家は
自分を強く押し通し、主張するイメージがありますが、
僕が会った方々を見れば一種の無私があるように見えますね。
理想の空想は一人でもできるけれど、
その実行は常に社会的なものである以上必ず行為を伴います。
故に、有能な理想家とは自己の表現や主張ではなく
現実の動きの方を眺めているものではないでしょうか。
独自性というものを持ちながらも、現実(社会)に
新しい動きが起こったならば、身に付けた解釈や
知識を容易に捨てることができる「刷新」の状態、
つまり領域に起こる動きに順じる、と。
宣長や小林の説く「日に新たに」の精神は
そんなものかもしれませんね(゜-゜)
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