2016/02/03

日本流リゾーム③




日本流リゾーム三回目。
今回は古事記の補足記事になります。



一回目はこちら
二回目はこちら









さて、日本最古の史書である古事記は
江戸後期、本居宣長が35年かけて
蘇らせたのですが、それ以前は誰も
古事記を読むことができませんでした。



例えばこれが日本書紀の場合なら
正統な漢文で書かれてますので
読むことはできたんですが、古事記は
支離滅裂な漢文で書かれているんですね。



なぜなら漢文を日本流にアレンジすることで、
「やまとことば」を伝承しようとしていたから。



つまり古事記とは、新しく輸入されたものを
額面通り利用するのではなく、日本流に
編集した最古の史書ということです。



1000年以上前からそんな編集と創造が
この国で行われていたと思うと、ビックリしちゃいますね。



☞☞☞


とは言え、その編集作業を調べて見れば、
大変な苦心があったようです。



先ほど書いたように、当時の日本は
「会話(やまとことば)」で完結しており、
独自の文字などは持っていませんでした。


それが漢字が輸入されるに従い、
言葉を記録するようになったけれど、
会話の発声やリズムは伝えることができませんよね。



そうすると祝詞のような「ありのままの発音」で、
はじめて効力を持つようなものや抽象的な内容は
余計な解釈が加わってしまう。



そこで天武天皇は正確に発音できる人が
残っているうちに発音そのものを記録しようと
太安万侶に命じ、稗田阿礼の口調を記録させたのですが、



当時は今みたいに仮名がないでしょう、
だから「やまとことば」を現すにはどうしても
漢文を使って書かないといけなかったわけです。



☞☞



では太安万侶はどうしたかというと、
「平仮名のように漢字を駆使することで」、
やまとことばと同じ発音を再現しているんですね。


大変な労力ですが、
そうしないといけない理由があったんです。



太安万侶は架空の人物と言われたが
墓誌の発見でj実在することがわかった。




本居宣長はそんな古事記の内容を
(神武天皇の件を含め)、素直に受け取りました。



そして、古代の人間の心情を理解しようと
当時の歴史や思想と向き合ったんですね。



それが宣長の主客一体の認識、
小林秀雄で言う批評・直観の精神。



宣長は解釈でもなければ分析するわけでもなく、
古事記を一種の「過去との通信装置」とし、
当時の情景と一体化しようと試みたのです。



中には彼を実証主義で科学的だと言いますが
そうじゃない、客観性を重視する実証主義の
人間に古事記は読めませんよ。



今だって「いついつ時代に誰々が何をしたか」を
調べるだけが歴史を知ることだと思ってますが、
それはただの記録であり知識です。



本当の歴史家というものは当時の人間が
どういった精神であったかを「自己」の中心から
現代へ蘇らせることができるんです。



だから「歴史とは常に現代史である」、と。



昔の人の行為を愚かなことだと
現代人は馬鹿にしますが、当時はそれが
その時代の真理であって、みんな信じてたわけでしょう。



だったらそれは今の科学や医学と
なんら変わらないじゃないですか。



今の学問だって1000年も経てば
おかしな理屈だと一笑されるかもしれませんからね。
(西洋医学がすでに賛否両論になってるように)




前回の繰り返しになるのですが、
生きてる時代から抜け出し、その時に
風靡しているものを疑うのは難しいけれど、




僅かな人が時代を一貫するものに気づき、
そこから抜け出そうとするんですね。





話が飛びましたが、次回に続きます(゜゜)




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