2016/02/29

どんどん細かくなっていく世界に嫌気がしてまして。




この間、あるサイトを見ていたら、
うつ病患者が10年前と比べ2倍になっていると
書かれていました。



なるほど。セラピストやカウンセラーという
職業がこれほど増えたのも納得です。



現代は心の時代。
メンタルブロック・メンタルコーチ・メンタル・・・・



調べれば、実にたくさんあるようですが、
その多くは心理学によって形成されたメソッドですね。



そう考えると心の時代は「心理学の時代」であると
言い換えても、差支えないでしょうが、




自分の意志や理性の産物ではなく、
何処からともなく現れる「こころ」というものは
果たして学問(体系化)できるのでしょうか。






この心理学という学問は
ドイツ(哲学)からの派生。



その起源を遡ればギリシャに辿り着きますから、
非常に長い歴史を持っています。



しかし、そんな長い歴史があるのにも関わらず、
不思議とどの国も「心の病気」を克服できていませんね。
(その点、イタリアは興味深い



メンタル大国(?)のアメリカなんて
子供までがうつ病になる始末。
本来、研究時間と効果は比例するもんでしょう。



しかし実際はそうじゃない。
それなのになぜこうも、普遍性を持っているのか。



多分に、それだけ魅力があるのでしょうね。
僕自身も一時期「憑りつかれて」ましたから。



☞☞



「心理学は頭にくる酒みたいようなものだ。
安かったと思ってもあとできっと後悔する。
私は両方とも性懲りもなく経験して来た」



小林秀雄は心理学に対し、こう評価しました。
ブールジェやプルースト(小説家)は
フロイトから学んだのではない、むしろ逆であると。



三島由紀夫は「我々は認識者ではなく、
表現者である」と言ってますが、それもまた
同じ意味に違いないでしょう。



趣味にするのは勝手だが、
万人に用いることはできない。



これが知識と経験の違いでしょう。
心理学は人に詳しくなったわけではない。
ただ単に、細かくなってしまっているだけだ、と。



その証拠に心理学は発達してますけど、
我々の生き方はちっとも発達していません。





その人の心を物的なものとし測定し変換する。
それは物質界、マテリアリズムの話です。


しかし我々が生きていく中で日々起こる主観的体験は
決して測定できるものではない。


朝起きてタバコが切れていたのに気づき
コンビニに行ったら愛想悪い対応をされた。


そんな些細な事でも、一日に影響するほど
不機嫌になったりするのは、ごく自然なことであって、



そんな不機嫌さや悲しみなんて測れない。



「生身の精神」ってやつは、そんなものじゃないですか。



2016/02/25

のんびりしてましたん。


明日の朝一で戻る予定なんですが、
メール見て忙しくなりそうな予感(。-_-。)



てなわけで、今日は
地元の人か、っつーくらい
ゆっくりしてました。





来たら必ず行く、にしむら珈琲さん



ちなみに神戸は人との距離感とか、
都会具合(笑)が僕にはちょうど良い。
ごはんだって福岡に負けてません。




今日食べたラーメン、美味しかったなぁ。
醤油侮ることなかれ、ですわ。

天孫降臨さんは無化調ラーメンの人気店



神戸牛も毎回美味い。
どこで食べても美味い。



まぁ、当たり前ですけどね(笑)


レンタメンテさんへ。





胃袋つかまれてる、
嫁さんみたいな街です(´-`).。oO



✳︎✳︎✳︎


そういや今回初めて
わかったことが一つ。















生田神社て、閉まるんですね。

2016/02/24

時間が取れましたん。



仕事も無事終了し、
お昼から自由時間です( ´ ▽ ` )ノヤフー



まずは疲れを癒そうと、
有馬温泉に行ってきました。

有馬、初めてです。



ちなみにこちらの温泉、日本書記や
古事記にも書かれているようで、


かつては太閤秀吉も愛したと言う
歴史ある温泉みたいですね。



なるほど。
余計なもんが全くない(笑)


でも、こういうの好き(・ω・)


♨︎♨︎♨︎


温泉に入る前にぶらぶら散策、
有馬稲荷神社へ行ってきました。




こちらも由緒ある神社みたいですね。
では、ちょっと参拝しますか。




と、軽い気持ちだったんですが
甘く見てました。



こんな高台にあるとは・・・。


ふしー。





足をプルプルさせながらも無事
参拝し終わり、いよいよ温泉です♪



ネットで調べてると、
太閤の湯なる場所が素晴らしいとか。


名前も良いし、近いし(笑)
即決です。





なるほど納得。

最初はスーパー銭湯かと思いきや、本格的な温泉でしたよ♪( ´▽`)



有馬温泉は金泉と銀泉に
分かれてるんですが、両方あったのが嬉しかったなぁ〜(金泉が特に良し)



からだ、軽〜
良い温泉はやっぱり違います。



ちなみに、風呂上がりは
いつもコーヒー牛乳なんですが、


今回は有馬サイダーにしました。

炭酸強い



♨︎♨︎♨︎



てなわけで、今日は色々と
予想外な1日でした( ̄▽ ̄)



さきほど拠点の神戸に到着、
今から都会で夜遊びです(笑)






人との関係性



例えば、諸君が野原を歩いていて
一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。



見ると、それは菫(すみれ)の花だと解る。
何だ、菫の花か、と思った瞬間に、
諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。


諸君は心の中でお喋りをしたのです。



菫の花という言葉が、諸君の心のうちに
這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。



それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。




菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい
感じを言葉で置き換えてしまうことです。



言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、
そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、
花は諸君に、かって見た事もなかった様な美しさ、
それこそ限りなく明かすでしょう。




これは小林秀雄の「美を求める心」にある
一説なんですが名文ですね。実に素晴らしい。



小林は自分の職業を文士と言ってますが、
多分に彼は芸術家なんでしょう。







スミレの花だけでなく、人であってもそう。
本当にその人を理解するということは
簡単なことじゃありませんね。



前回と似たようなことを言ってしまいますが、
知るための知識がどんなにあったとしても、
本人が理解しようとする感情を持っていなければ
それはまったく意味がないんです。



知識での理解とは分かる(分ける)ことです。
冒頭で言う、心の中のおしゃべりのことです。



しかし、本来の理解とは「解る」、解けること。
これが繋がりってものでしょう。



故に、理解しようとする感情を持つとは、
正しく感じる心を持つことでもある。



僕はそう思っています。



☞☞



正しく感じる心を持っている人とは
しっかりと見定めることが出来る人のことです。



自分の価値観に溺れず、知識に頼らず、
はっきり見定めたものを、自己の中に
整えることができる人です。




そんな人との出会いは静かなもの。




刺激こそ少ないけれど豊かさがある。
僕はそっちを選びますね。




2016/02/23

仕事は「ぬり絵」ではない。



こんにちわ、坂口です(゜゜)
寒いのも、もうちょっとの辛抱ですね。




さてさて、今日は仕事について。



ホームページでもお伝えしているように、
当事務所ではまずはβ版から入ることで、
自由度の高い本部を構築しています。



クライアントさんとの対話によって
一番しっくりくる「落としどころ」を探りながら、
オーダーメイドで作り上げていくんですね。



漫画のネーム(下書き)だってそう、
まず全体のデザインを決定してから
細かいディテールを書き始めていくわけです。






宝塚市立手塚治虫記念館にある制作途中の原稿のコピー




こういった方法は「正しいデザイン」の中で起こる
「揺らぎ」である以上、「どこに転んでも正解」になります。



これを「不決断」だと感じ、その曖昧さに
モヤモヤしてしまう人もいるでしょうが、
これは「最適化」へのプロセスなんです。



ぶっつけ本番でいきなり最適化は不可能。
プロの漫画家さんだっていきなり原稿に
ペン入れなんてしませんよね。



逆を言えば、それまでは
いくらでも修正ができるってこと。



反面、これがすでにあるロールモデルから
入った場合はそう簡単に変更はききません。


例えるなら、すでにデザインが完成されている
ぬり絵に色を付けるようなものですから、
枠から外れたら全部台無しになるんです。



当然、その修正コストは比較するまでもない。



多くが形から入るのとお金をかけるのを
同一線上に捉えているのですが、それ嘘ですからね。



厳しい言い方ですが、コストを度外視するなら
誰だってできます。



けど、そんな専門家は二流ですよ。




☞☞☞



そもそも論を言えば、組織に関わらず単一の
ロールモデルや完成されたプログラムに
従っていれば、必ず限界があるんです。



その限界とは、
ぬり絵を全て塗り尽くした状態と言うこと。



「この制度やこの教育で、こういった効果があり、
こういったことが開発され、こういったものが強化される」と、
完全にその意味を「理解(取得)した時」、



今まで効果があった(と思われる)ものは消え、
後はそれ自体が「檻」になってしまう。



まさにマニュアルなんてそうでしょう、
覚えてしまったあとはかえって邪魔になるもんです。



そんな膨満感が組織の開放感を停滞させ、
硬直していく原因だと言うのは、一度でも
チェーンシステムの中で働いたことがある人は分かりますよね。



そこには肝心の余白がない、



unreve的に言えば「あそび」や
「暗黙知」がないんです。



☞☞




本来の仕事はのびやかな開放感があるもの、
一つの形式をこなすだけの作業が終わりじゃありません。



だから理念は「永遠の問いだ」と。
完成を求める未熟さこそ、実は完成なんです。




そういった理念が浸透すればするほど、
多面的に・多層的に・多声的な組織になる。




これが日本流です。





※お願い


おかげさまでご依頼をたくさん頂いておりまして、
現状、お電話からのお問い合わせにすぐ対応できない状況です。



お手数ですが、まずメールやお問い合わせフォームから
必要事項を入力して頂ければ助かります。




2016/02/21

結んで、ひらいて。






さて、ビジネスでもなんでもそうですが、
この国はある「状態」を自然にやっていて、



僕はそれがまるで「結んで、ひらいて」の
歌のようだな、と思っています。




例えば、この国は思想でも宗教でも商品でも
「まず受け入れる」ことからやってますよね。




しかし、ただ受け入れっぱなしに終わらず
様々なもの同士と繋ぎ合わせ、最適なものを
作り出しているんです。




それこそ、日本のブランドたる所以でしょう、
メイドインジャパンは「国内生産」という意味じゃないってこと。



伝統も結んだままじゃないですよ。
常に「結びと開き」の流れが繰り返されてるんです。









そんな長い年月によって蓄積された経験値は
技術と違って、簡単に真似できないもの。
長い年月と厳しい目がないといけません。



例えば以前、オーストラリアの人が「この国は500円の
ランチでも味に評価をつけるなんて信じられない」と言ってました。




海外からすると価格と質は比例するんでしょうが、
この国では「安かろう。悪かろう」を良しとしませんよね。



鉛筆一本にしても、細部にこだわりを持つ。
改善を繰り返し、日本刀のように研ぎ澄まそうとする。



その結果、オタクの様にとことん追及されていく(笑)



これがまず最初の「結び」でしょう。



☞☞




そしてそこからの「開き」によって
多様なものがさらに多様に編集されていきます。



最近のハロウィンなんてそうでしょうね。
あれは端的にこの国の精神を現してるんじゃないでしょうか。



誰だって参加できるような場に仕上げている、
これが結んだままだったら、怪しげな集会ですからね(笑)



つまり自分の周囲だけという閉じられた
楽しさを追及すると同時に、誰だって参加できるという
二重の精神がある。



そこには押し付けもなく、
排除することもありません。



これは古事記の世界からそうなんです。






天照大神が岩戸隠れをした際、
他の神々たちは強引な真似はしませんでした。



天鈿女命(アメノウズメ)が岩戸の前で半裸で踊り、
他の神様たちはそれを見て笑い、騒いでただけ。
それを見て、天照は「自分から」岩戸を開けたんです。



イザナミとイザナギが別れたときもそう。
「お前の国の人間を一日1000人殺してやる」と
言うイザナミに対し、




イザナギは説得しようとせず
「だったら私は一日1500の産屋を作ろう」と言っています。



ここに、多様を認める
この国のルーツ(根)があるんじゃないですかね。




三方良しの精神もそう、
それを継承するのが日本流です。








見れば、もうひとつの精神性である
「持続可能性」が今の企業から失われ、
海外からのシステムや制度を導入してますが、



我々は本来、組織だって長年続くものを作れるんです。
これだって企業寿命が短い海外には真似できません。




だったら後はそこでしょう、
ということで、unreveでは日本流の組織を提唱しています。







「後記」


多分に、みんなで何かをやるときは
遠足みたいな感じ良いんじゃないかな。




営利が伴うと、どうしてもそれを
「登山」にしてしまうんですが、




子供たちの目的は山に登ることじゃなくて
「お菓子」とか「お弁当」ですよ。




だったら「結果、やまのぼり」くらいで丁度よくないですか(笑)
やることは一緒です。

2016/02/20

異端だろうと





もう一つの理由は、この国の持つ編集力が 
フランチャイズの業界に発揮されていないと感じたから。 



開闢以来、この国は中国や西洋から輸入されたものを 
そのまま受け入れるのではなく、最適な形に編集してきた
歴史を持っているんです。 


たとえば、最初はナポリタンしかなかったパスタですが、 
今ではタラコなどの「和風」が定番となっていますよね。 
ラーメンだってここまで多様にしているのはこの国だけです。 




この流れは漢文が輸入された時代からそうなんです。 
文化であれ、学問であれ、我々は次々と輸入されたものに対し、 
常に最適な形にして応対しているんです。 



だったらフランチャイズも例外ではありませんよね。 



現在アメリカから輸入された高度経済成長期の
ビジネスモデルをそのまま 利用しているのですが、
当然今は高度経済期ではありません。 


少子高齢化であって、多様化に伴いマスが
通用しない時代なんです。 



そんな時代に対しFCを最適な形へ編集していくのは、
ごく自然なこと。 私はそう感じています。




これ、うちの事務所のHPに書いてるやつなんですが、
けっこう反響がありまして、よく話のネタになります(笑)



「確かに、時代はコンパクト化に向かってますよね」とか、
「昔のモデルをいつまでも使うのはおかしいですよね」とか。



当初は聖域を冒す不届きもの扱いでしたが、
年々、少しずつ賛同者が増えているのを実感してますね。




構造は、流れる






そういやこの間、
こんな番組がNHKで放送されてたようです。




黒字企業が消えていく ~自主廃業3万社の衝撃~ 




自主廃業ってことは赤字倒産じゃない場合もあるってこと。
黒字であっても、経営できない所はたくさんあるんです。



製造業だけでなく、FC対象業態だってそう、
継ぎ手がいないため、やむなく暖簾を降ろしている。



長年続けるだけでも大変なご苦労があったはずです。
さらに赤字半数と言われる中、黒字経営をされてる
健全な企業の廃業は、国にとっても大きな損失なのは間違いありません。



現在、M&Aとして事業承継をしていますけど
莫大な資金が必要なため、やれるところは僅かでしょう。



地域の人にとっては、規模の大小は関係ない。
小さくても、必要とされてる店はあるんです。



☞☞




長年人気であっても個人自営のFC化は
対象外というのが業界では暗黙の了解、
やりたきゃ暖簾分け制度を使えと言うでしょう。




専門家の大半は、先人の業績や
これまでの慣習に追従するばかりで
改善的な姿勢がみられない。




もちろん、専門家たちも生活がありますから、
収入を確保するために資本力の大きいところを
優先してしまうのは仕方ないかもしれませんよ。




しかし僕はそれを認めない。





ってことで、unreveは唯一
「個人自営もFC化する」ことにしています。



これは誰からか頼まれたわけでもなく、
やったからといって儲かるわけでもない。




自分の情熱に任せて、やむにやまれずやっているんです。





2016/02/19

最近。。。。







この間の記事、
けっきょく、何を書きたかったんだろ(゜゜)





見直すと、わけわかんない笑





まさか、







これがうわさの自動書記・・・






って岡本天明かー。
ひふみブログかー。






だめだ。
一人ボケツッコミにもなってない。




☞☞




多分、頭のモヤが晴れない理由はアレだな。
この間の衝撃的なあれからだな。






人生って、わからんもんやな。







とまあフワフワしている、今日この頃です。










他人が理解した「こと」、本人が味わった「もの」





孔子の論語の中に「まずは学を勤め、
次に好み、最後は愉しむ」というものがあります。



順序云々は置いときますが、
やはり「楽しむ」という境地に
勝るものはありませんね。




美味いものを食べる。映画を見て感動する。
音楽を聴く、旅行先の温泉に癒される・・・。



人によって楽しみ方は色々あるんでしょうが、
こういった純粋な遊戯に目的なんてない。




幸福だって楽しみですよ。
理由とか正解を探すほうが野暮ってもんだ(笑)。



ひとり温泉、サイコー




そんな感じで、誰だって「無論」の楽しさを
ひとつふたつは持っていると思うんですが、



その「無論」に我々は満足できす
分析したくなるもんですね。



「この料理はどう美味しいのか」とか。
「この温泉は他と比べてここが違う」とか。



明確な意味や答えが欲しくなってくるんです。



その意味の中に「楽しんでいるわたし(ing)」なんて
存在しないけど、ついやってしまうわけだ。



しかし客観的に、明確に語れる楽しさなんて
実際はたいしたものじゃ~ありませんぜ。



本当に楽しけりゃ自分を忘れちゃいますからね。
思い出す時だって、その余韻を味わってるに過ぎません。




☞☞



(理屈っぽく書くと)
主観的に楽しんでいる事象そのものを
説明すると「楽しかった」としか書けないんです。



小学生の日記はそういった意味で真理ですよ。
人に説明する気なんてありませんからね(笑)



他人が理解した「こと」と
実際に本人が味わった「もの」は全くの別物になる。



実に精巧に出来てますがね。
後追いはリアルじゃなく、写真ですよ。







もちろん、そういった仕事や表現を
否定しているわけじゃなく、
人とは共有できないと言ってるわけでもありません。



僕だって星座占いとか見ますしね。
食べログで美味いところはやっぱり美味いと思っちゃう。




ただ、それを人間関係や恋愛など、
全人的に当てはめてる人を見ると
ちょっと危なっかしい方向に向かってる気がするんです。



人はいくらでも変わるもの。
味覚だって価値観だって一定じゃない。



それが1年先か10年先か分かりませんが、
5分後に変わってる可能性だってあるんです。



てことは、今嫌いな人であっても
将来好きになるかもしれない。




それは誰も分からない。分析もできない。



しかし、それが良いんです。



最近、すぐに「見切る」人が多いようですが、
人間ってそんなに浅いもんじゃないですよね。





僕はなるべく身の回りを柔らかくしたいなと思ってます。
いつか意味づけしないものが楽しみになるかもしれませんから。




2016/02/18

脱力中。。。。


























最近の僕



















宮崎先生すいません













日帰りの出張の何が嫌かって、
ご飯がやっつけになるところですね。









ただ、来週の神戸出張はちょっと時間取れそうです(´-`*)







2016/02/16

お疲れモード





昨晩書きかけ途中の記事を
アップしちやったようです(゜゜)マタカ



いつも仕事がみっちり
詰まってる時にやらかしてますんで、
更新ペースをちょっと変えようと思ったんですが…




書きたい時は書いちゃうな、うん。
すいません、以後気を付けまス。。。

2016/02/14

聖バレ・・・






こんにちわ、坂口です。
皆さんお元気ですか、僕は元気です。















えっ?今日は何の日だって?












・・・・愚問だな(。-`ω-)フッ














2月14日といえば















ウラジーミル=ドリンフェルトの誕生日だろ






ウラジーミル・ドリンフェルドはウクライナ・ハリコフ出身の数学者。 1974年にモスクワ大学卒業、1978年にモスクワ大学でPh.D.を取得。指導教授はユーリ・マニン。1988年にステクロフ数学研究所においてDr.Sci.を取得した。1990年にフィールズ賞を受賞した。現在はシカゴ大学教授。 ウィキペディアより














えっ?違うの(´・ω・`)?
あとはヒロシしかわかんねーよ。

























さて、タバコでも吸うか。









タバコタバコ、と。
































あった。














まったく、おかしな質問しやがって。


















スサー。スサー。

















最近のタバコは高えなあ。
一本30円だもんなあ。












まあクジ付きやし、いっか。











って






















違うわあああああああうああああわああああああああああああああうああああああああああああああああああああああああああああああああああ
















何がクリボッチにタンボッチにバレボッチだ馬鹿野郎!こちとらボッチって言われてもダイダラボッチしか思い浮かばねーんだよ!











つかこのネタのためにわざわざチョコバット買ってきたわ!自分でアホかと思ったわ!


















・・・・・・飲みに出かけます。探さないでください。





















2016/02/13

雑記とか




こんばんわ、坂口です(゜゜)



基本、このブログで経済の話は
しないようにしているんですが、



最近ちょっと、アレですね。
クライアントさんとの雑談もそればっかりです。




僕は感受性のカタログを器用に作る
懐疑派なので、アナリストのように言えませんが、




果たして、神の手は本当に「見えない」のでしょうかね。








資本主義を生命体に例えるとすれば、
一体どんな状態なんでしょうかね。



無理矢理に延命治療をされているのか。
それとも大病こそ患っているけれど、
やがて回復し、また元気になるのか。



別に生命体に例えなくても機械やシステムと、
言い方は何だっていいんですが、



ようは、社長さんもお医者さんもサラリーマンも
全員、その資本主義の中で生きているってこと。



我々は資本主義と言う乗り物に乗ってる
いち乗客なんです。決して運転手じゃない。




だから僕は常に疑ってかかってるんですが、
他の方たちは信じているんでしょうかね。



☞☞



人間は飛行機を発明しました。
また、電車を発明し車にも乗り出しました。



言葉だってそう、作ったのは我々ですよ。
便利ですからね、誰だって利用するに決まってます。




ただ、作ったのと完全な管理制御下である
というのは別問題でしょう。




だけど我々は疑っちゃいない。




飛行機を。パイロットを。バスを。電車を。運転手を。
そして言葉を。






さて、どうなることでしょうか。






2016/02/11

日本流リゾーム⑧




日本流リゾーム、八回目。




一回目はこちら
二回目はこちら
三回目はこちら
四回目はこちら
五回目はこちら
六回目はこちら
七回目はこちら




やれやれ、
ある意味、予想通りでした(笑)
全くまとまりませんしたね(。-∀-)スイマセン。



今回、細かい部分は全部はしょってしまいましたが、
他にも面白い内容がたくさんあるんですよ。



例えばこの国の神様は量子力学と同じ原理で
世界を作ってるとか、昔の人の「死ぬ」は
「萎ぬ(干からびる)」ことだったりとか。



あとやり過ぎてしまう荒神、スサノオとか
禍津日神とか直毘神とか・・・。



まあ、暇なときに古代の人の心に
触れてみてはいかがでしょうか。




ということで、今回で最終話となります。








古事記の(古代の日本の)根底に流れる
精神である真心や源氏物語にある「もののあはれ」。



その概念は語り尽くすことはできないもの。
理(言割り)ではなく、割らずに同一化しているのは
まるで西田の「絶対矛盾的自己同一」のようです。



「~でなくて、~でなくて、~でなくて」が
複数必要なのは、真心は常に揺らいでいるからでしょう。
ラカンが「日本人の精神は分析できない」というのも
そういった背景からじゃないですかね。



しかし、(個人的な解釈ですが)
その揺らぎが結果として「絶対」を歯止めしている、と。



例えば、宣長の生きる享保の時代は
西鶴の言うように「世に銭ほど面白きものはなし
という思想がいよいよ動かなくなっていた頃ですが、



そこに宣長の学問や和歌という文化的な
アンチテーゼ(ジンテーゼかも)が起こり、
思想劇の幕が開いたわけです。



ある人は説得される一方、反撥したりしたでしょう。
「なるほど、そうか」、「いいや、そうじゃない」と。



これによって非常に人間の心が
生き生きとしたものになってますよね。




小林の時代だってそう、当時は近代(科学)という思想が
いよいよ動かなくなってきた時代だったけれど、



そこに小林の(宣長の)真心という曖昧な精神を
基盤とした思想が社会に投げ入れられたわけだ。




こんなもの、白黒なんてつけられない。
けど、それがいいんじゃないでしょうか。



☞☞



直観として「何故か知らないけれど」
深く心に向かってくるものは仕方ないんです。



その原因を考えても分かるものではない。
それが自意識(自我)ではなく、自己の中心から
来ているなら、応接している僕を信じるしかないでしょう。



だから反省や疑いが必要なんです。
間違ったものを信じるかもしれませんからね。



そこで人為的な理屈(漢意)をつけてしまえば、
自分の間違いを素直に認めることができなくなってしまう。



昔のことわざに「理屈と膏薬は何処どこへでもつく」と
言われるように、理屈はつけようと思えばどんな事にも
つけることができるんです。



宣長や小林はそんな人(インテリ)を否定し、
離れることで、自分の道を進んだんですが、



果たして、これは孤独と言えるでしょうかね。
だったら僕は間違いなく、そっちを選びますわ。








さて、宣長さんは小林さんが11年かけても
捕まえきれなかった人なんで、到底僕には
説明することはできませんが、



多分に、真心で生きた人だったんでしょうね。
そしてその思想基盤は京都にいた時の遊学、
「私有自楽」な生活の時点で得ていたように感じます。



私有自楽とは自分だけの自由な空間(世界)を持ち、
自分だけの楽しみを見出すこと、これは和歌の本来でもあります。



和歌には敬語がありませんからね、
あれは制度から自由になった人間のリアルなんです。



故に和歌の本質には神代の世界(真心)が内在している、と。



宣長はそんな清濁入り混じった真心を和歌として
歌うのが、この国の文化であったと言ってるんですね。







とまあ、8回に渡りつらつらと
「内部派生」・「自然派生」・「あいだ」・「揺らぎ・遊び」を
古事記に重ね、書いてみたのですが、



キリないし、疲れたんで
とりあえず、このテーマは終わります(笑)



これがうちの日本流かと、少しでも理解して
いただけたのなら、書いた甲斐があったってもんです。



ちなみに昨今では愛国と言えばすぐに「右翼」だと
批判されるのですがバカおっしゃい。本来の愛国は中道ですよ。



「肉が好きか、魚が好きか」と聞かれても
どっちも食べる僕からすれば「美味しい方」や
その時の気分で決定するとしか答えられないですからね。



クリスマスだってハロウィンだって正月だって、
みんなが楽しけりゃ、それでいいんです。



見るべきはそこじゃないですかね。
てなわけで、今週は長崎でやってる
中国のお祭り「ランタンフェスタ」に行ってきます(笑)





2016/02/10

日本流リゾーム⑦



日本流リゾーム、七回目となります。




一回目はこちら
二回目はこちら
三回目はこちら
四回目はこちら
五回目はこちら
六回目はこちら





現時点で古事記を書いているのか
宣長を書いているのか小林を書いているのか
わからなくなってきましたが(笑)



共通して言えることは、我々の自然で素朴な
感覚を大事にしなさいよ、ということでしょう。




根あるがゆえの花、
その根を明らかにすることは大切なことですからね。




さて、前置きはこれくらいにして、
そろそろ本題へと移りますか(゜゜)






宣長はこの国の文化、精神性は女々しいもので、
それを和歌として表現してると言います。



大和の心は理屈で善悪をキッチリと分けるような
勇ましいものではなく、あいまいで移ろいやすいものなんです。



なるほど、
「勇ましいことは滑稽である」と小林は言ったけれど、
多分にそれは世間体用に取り繕った心であるということでしょう。



つらいもんはつらい。
それでいいんです。




この国はそんな清濁併せ持った真情を
そのままに認めてたからこそ、意見の
異なる相手でも通じ合うことができました。



例えばこの国は「対話」で国家を統合してますが、
そんなこと出来たのは、この国以外ありません。



もちろん国譲りの様に政治的駆け引きのようなものも
中にはあったのでしょうが、儒教や仏教のように
「聖なる教え」を相手に説くものじゃなかったんです。



つまり相手の主体性を奪ったり、
自分の主体性を失ったりはしていないんですね。



☞☞☞



自己の主体性を失って協調する(同)や
力で相手を屈服させるのは実に容易いけれど、



自己の主体性を保ちながら
協調するのは非常に難しいもの。



裸の自分を出す素直さと、それを認める
寛大さがなくてはいけませんからね。



逆を言えば、この国はそれが出来ていたということ。



その証拠に、この国では大規模な
宗教弾圧(戦争)は起きてません。



七福神だって恵比寿さん以外、海外ブランドですよ(笑)
信仰する神だって仏と融合(神仏習合)できるんです。



そんな様々なものを取り入れ、調和させることに
非常に長けているのは、異質に対する寛容さであって、



その精神は神代から続いているのだと
古事記には書かれているのです。



wikiより引用



しかし他の国はそうじゃない。



よその神様は全知全能で絶対正義、
それを信仰する人からすれば譲れない。
どうしても「一位」を獲得しないといけないんです。



だから世界の歴史は
「宗教戦争の歴史」になってるでわけでしょう。



自分たちが正しいと、和さずに「同じた」集団が
いつもドンパチやってますが、



そんな派閥的な利害があると素直な
人間同士の付き合いなんて、できるわけありません。



仲間内では信頼されている人であっても、
対立する相手からは「悪人」になってしまいますからね。



それが相手ではなく所属する集団の
イメージで判断していることだということに
気が付かないんです。







もちろん価値観の合う仲間を作るのは
素晴らしいことです。



しかし、何かを啓蒙しようとする団体は
必ず所属するための条件があるんです。




僕はそんな小さな会議室でしか通用しない
真理なんて、間違っていると思うんですね。




だから会話ではなく対話をやっていこう、と。




もちろん、まだ上手くは出来ないけど、
僕はそうやって相手と接して行こうと決めてます。




失礼、最後は脱線話でしたな(゜゜)
てなわけで、次回に続きます。





2016/02/09

日本流リゾーム⑥




日本流リゾーム、六回目。




一回目はこちら
二回目はこちら
三回目はこちら
四回目はこちら
五回目はこちら








前回は素直な本情を感じるままに行動することが
人間の本来(真心)であると、お伝えしました。



誰しもが持っている愚かしさや女々しさを
素直に認めることは大事なこと。
それが生きた智慧にもなるんです。



しかし、この国はいつの間にか「恣意的な正しさ」を
追い求めるようになってしまった。



例えば宣長がいた当時では仏教的な真理(彼岸)や
儒教的な善悪(道徳)が世の中の基準となっています。



人に優しく、利他の精神で、苦行に耐え、
聖人の道を歩き、欲望を消し去り、感謝を忘れず。。。。。と




宣長は、そんな道徳・規律によって真心を抑制して
無理に生きていれば、いつか抑えきれなくなり
激しい情に流されてしまう、と批判します。



まさに建前である儒仏教的な価値意識が
破綻し、かえって背徳的な行為に
向かってしまうことを、知っていたのでしょう。
(僕はそれを「揺り戻し」と捉えています)



しかも極から極へのシフト(白黒)ですから
今までを全否定し、反対を全肯定してしまうんです。



しかし本来はどっちにもないわけでしょう。




漫画で善人だった人が裏切られて
悪人になってしまい、主人公によって
また改心する・・・・みたいなやつありますけど、



それと似たようなものじゃないかしらん。
根は変わらないもんです。



☞☞




宣長はそんな人たちに
「自分の心に嘘をつくな!」って言っているんです。



聖人だろうが凡人だろうが、古今東西
(古も今も、唐も天竺も、此国も)同じように
もっているものを歪めるんじゃないよ、と。



それを認めることができる人が「心ある人」であって、
理屈ばかりで知ろうとしない人や、
鈍感で分からない人は「心なき人」なんです。



例えば、愛する我が子を失った時、母親は
なげきにしづみて、涙にくれまどふ」のは当然であって、



そこでその感情を抑え、とりみださずに
悲しみを表にあらわさないのは建前の心であると。




当然、仏教の煩悩(欲望)も宣長は肯定しています。



みなみな富貴をねがひ、貧賤をいとひ、美食を悦び、
美味をむさぼり、楽をこのみ、苦をいとひ、福をねがひ、
禍をにくむ」という利欲は誰しも持つ心であって、
それを否定し「清貧」を好むのはおかしい、と。




なるほど。商人が清貧を勧める仏教より、
宣長の教えを聞きにきたのも納得ですね(笑)




まあ、普通に考えたらそうでしょうな。
誰だって「病気」より「健康」を選ぶもの。



これは古今東西、変わりませんよね。



☞☞



とは言え、宣長は欲望を全て肯定はせず、
本心を抑えることも完全に否定していません。



ここが間違えやすい部分ですね。
以前書いた自由と放縦の違いでもあります。



歌は情よりいづるものなれば
欲とは別也



和歌とは真心を歌い、味わうものですから
欲と真心は別物だよって言ってるんですね。



ん。長くなりましたな。
次回に続きます(゜゜)






2016/02/06

日本流リゾーム⑤




日本流リゾーム、五回目となります。




一回目はこちら
二回目はこちら
三回目はこちら
四回目はこちら





さて、今までの内容をザックリまとめてみると、
こんな感じですかね。



①戦後、この国が連合国に二度と歯向かう
ことがないよう、財閥や軍の解体だけでなく
日本の精神を支える神道(神話)を抹消しようとした。


②ただ、いきなりやると猛反発が起こるので、
「ゆでガエル」式に徐々に解体していった。
(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)


③その解体しようとした神話(古事記)は
押し寄せる外国の文化を日本流に編集したもの。
この国の根幹を支える精神でもある。


④その神話には唯一神ではなく
たくさんの神(八百万)がいて、人間のようである。


⑤しかし、それはそれぞれの神さまが持つ
「真心」であって、それを素直に出せる国だった。




そういや来週は建国記念日。
我ながら、良い時期に書いたもんですわ(笑)









さて、前回は古事記の真心について
少し触れてみました。




古代の日本人は、そんな飾らない生き方を
神々の時代から受け継いでいたんですね。



これこそ、仏教や儒教やキリスト教が輸入される
以前の生き方であって、それを古道(惟神の道)と言います。



この国は「教え」じゃなくて、道なんですね。
驚くことに「道」だけで、国が統治できてたんです。



余計な知恵(漢意)を出すことなく、
神様のいた時代の通りに天皇は政治を行い、
民衆もまた人間の作った価値基準を
超えた心(真心)で生きていた、と。



宣長は古事記からそう感じ取ったんです。
まさに「全員が自然のままだったのだろう」と。




☞☞☞



反面、これが一神教だとそうはいきません。



一神教はたくさんの神様が歩み、
自然に出来た道ではなく、
一人の聖人が作った一つの(絶対の)教えです。



キリストしかり、仏陀しかり。
一つの真理を一人が作ります。



ただ、そうなるとそれ以外が
間違いになるので排除しないといけませんから
「白黒はっきり」しないといけなくなるんです。



正解は一つですからね。
一神教は主導権を譲ることはできないのです。




☞☞



本来、あらゆる学問が追及するものは
全員の幸福であるはずなんですが、



「たった一つの真理」とは
人を冷たくさせる部分がありますね。
科学だって似たようなもんです。



もちろん、たくさんの恩恵はあるけれど、
暗くしている部分だってたくさんあるんです。



例えば、現代は生理学のようなものが
「心の設計図」だと思っていますが、
そんなバカな話はありません。



それは人間という「種」としての後追い分析、
「わたしの個性」など、まるで入ってないでしょう。



そりゃそうです。「わたし」という個人を入れると
科学はどこにも行けなくなりますからね。



つまり科学とは万物を白黒(0・1)に捉えることで、
「○○すれば、□□になる」という固定した関係性を
見出す学問ということ。



1+1は2であって、それ以外の解はない。
粘土のように「大きな1」になると言う解は×なんです。




その前提で出来上がったのを、
我々は形式一点張りだと、嫌ってるじゃないですか。




☞☞



厳しい言い方になりますが、
そんなものは誰だってわかります。



しかし本当に高度なものは形式では
語り尽くすことができないんです。



例えば以前は、語りえないものを表現した
芸術や音楽は貴族だけのものでした。
(中には分からない貴族もいたでしょうけど)



反面、形式だけのものは大衆が習得する
ためにあるもの、今の学校形式だって
元々ナポレオンが軍を結成するのが目的です。



それってまさに「わたし」を「大衆」という種として
取り扱っている証拠じゃないですか。



形式というものは誰でも習得出来る以上、
使い方次第では怖ろしいことになる。
だからこの国は理論一辺倒ではなく、
寺子屋という、個別教育があったんです。




ん。話が逸れましたな(゜゜)
次回に続きましょうか←おい



2016/02/05

日本流リゾーム⓸




日本流リゾーム、四回目となります。




一回目はこちら
二回目はこちら
三回目はこちら





さて、この神話には国家成立の意義や
アイデンティティだけでなく、人生観や
死生観が書かれているんですが、



多くが研究対象として扱ってるもんで、
現在は情報だけが膨大になってますね。



いつの時代も合理派と情緒派とでは
調べ方が違ってくるもの、



例えば「稗田阿礼は男か女か?」とか
「日本書紀と比べ、どうなのか」とか。



実在かどうか調べ、体系化させるのが学者の
仕事ですから、追及すればどんどん高尚に
なってしまうのは分かりますが、



そうなると俗世界から離れた
象牙の塔になってしまう、これじゃあ本末転倒です。



本来は本質を見出し、子供にでも分かるような
スタイルに仕上げるってことが、大事なんじゃないですかね。



前置きが長くなりましたが、本題へ移ります。
インテリさんのツッコミどころはたくさん、たくさん
あるでしょうが、そこはまあご勘弁ください。









さて、古事記に出てくる神様は
西洋のような絶対的な善ではありません。



スサノオのように悪さもすれば
イザナミのように恨んだり、イザナギのように逃げ出したりします。


まるで
神様というよりも「人間」のような。
否、人間そのものじゃないでしょうか。




そんな古事記に書かれている神の心を
宣長はごく自然な行為(真心)と呼びました。
産巣日の神によって作られた、本来備え持った心である、と。



つまり真心には、全ての要素が入っているんですね。



現在の真心は「清く、正しい」イメージですが、
古事記の(宣長)の説く真心はそうじゃない、



良さと悪さ、賢さと愚かさ、繊細さと鈍感さ・・・



そんな様々な心の現れを指している。
絶対矛盾が自己同一してるんです。



宣長は古事記に書かれている善いことや
悪いことは神様の真心でやっているのであって、



そんな生まれついて持っているものを
変えることのほうが真心を失った状態である、と言ってるのです。



☞☞☞




こう書くと当然、我々は納得できません。
「じゃあ誰だって自分勝手にやっていいのか」と。



もちろんそういう意味ではなく、簡単に言えば
嬉しいときは嬉しいと喜ぶ素直な心」のことです。



さみしいときはさみしく、つらい時はつらい。
怒るときは怒り、泣きたいときは赤子のように泣く、




常に笑顔を絶やさずワクワクしたり、
どこぞの議員みたいに、頭を使って
「ウソ泣き」するんじゃない、と(笑)



(unreve流に言えば)
自己の中心から自然派生的に起こる感性。



それこそ、様々な価値判断基準によって
動いてない、純粋な心の働き(真心)なんです。



☞☞



ただそれは現代では発見できず、
発見しても掴むことができにくいものです。



なぜなら(僕を含め)大半が社会という「枠」と
今まで続いている「常識」を無意識に受け入れているから。



その状態で「ありのままの自分」を出しても、
それは「本音と言う名の」合理損得勘定、理性の世界でしょう。



だから自分らしさを出せと言う類の話には
成功とかお金などの「報酬」があるじゃないですか。



しかし古事記にある「真心」はそうじゃない。
客観的な理由なんてないんです。




例えば「ありのままを出そう」とすると
「良心の呵責」が起こる時もあるでしょう、



それはブロックでも投影でもありませんよ。
かといって、真心かどうかも分かりませんけどね(笑)



それが分かるのは自分だけです。




現在、「常識や道徳からくるもの」なのか、
「本当に自分の心からくるものなのか」が
自分で判断できないから、人に尋ねてるんですが、




聞いた時点ですでに「捉われる」以上、
学んでどうにかなるもんじゃないんですね。





長くなったので続きます(゜゜)







2016/02/03

日本流リゾーム③




日本流リゾーム三回目。
今回は古事記の補足記事になります。



一回目はこちら
二回目はこちら









さて、日本最古の史書である古事記は
江戸後期、本居宣長が35年かけて
蘇らせたのですが、それ以前は誰も
古事記を読むことができませんでした。



例えばこれが日本書紀の場合なら
正統な漢文で書かれてますので
読むことはできたんですが、古事記は
支離滅裂な漢文で書かれているんですね。



なぜなら漢文を日本流にアレンジすることで、
「やまとことば」を伝承しようとしていたから。



つまり古事記とは、新しく輸入されたものを
額面通り利用するのではなく、日本流に
編集した最古の史書ということです。



1000年以上前からそんな編集と創造が
この国で行われていたと思うと、ビックリしちゃいますね。



☞☞☞


とは言え、その編集作業を調べて見れば、
大変な苦心があったようです。



先ほど書いたように、当時の日本は
「会話(やまとことば)」で完結しており、
独自の文字などは持っていませんでした。


それが漢字が輸入されるに従い、
言葉を記録するようになったけれど、
会話の発声やリズムは伝えることができませんよね。



そうすると祝詞のような「ありのままの発音」で、
はじめて効力を持つようなものや抽象的な内容は
余計な解釈が加わってしまう。



そこで天武天皇は正確に発音できる人が
残っているうちに発音そのものを記録しようと
太安万侶に命じ、稗田阿礼の口調を記録させたのですが、



当時は今みたいに仮名がないでしょう、
だから「やまとことば」を現すにはどうしても
漢文を使って書かないといけなかったわけです。



☞☞



では太安万侶はどうしたかというと、
「平仮名のように漢字を駆使することで」、
やまとことばと同じ発音を再現しているんですね。


大変な労力ですが、
そうしないといけない理由があったんです。



太安万侶は架空の人物と言われたが
墓誌の発見でj実在することがわかった。




本居宣長はそんな古事記の内容を
(神武天皇の件を含め)、素直に受け取りました。



そして、古代の人間の心情を理解しようと
当時の歴史や思想と向き合ったんですね。



それが宣長の主客一体の認識、
小林秀雄で言う批評・直観の精神。



宣長は解釈でもなければ分析するわけでもなく、
古事記を一種の「過去との通信装置」とし、
当時の情景と一体化しようと試みたのです。



中には彼を実証主義で科学的だと言いますが
そうじゃない、客観性を重視する実証主義の
人間に古事記は読めませんよ。



今だって「いついつ時代に誰々が何をしたか」を
調べるだけが歴史を知ることだと思ってますが、
それはただの記録であり知識です。



本当の歴史家というものは当時の人間が
どういった精神であったかを「自己」の中心から
現代へ蘇らせることができるんです。



だから「歴史とは常に現代史である」、と。



昔の人の行為を愚かなことだと
現代人は馬鹿にしますが、当時はそれが
その時代の真理であって、みんな信じてたわけでしょう。



だったらそれは今の科学や医学と
なんら変わらないじゃないですか。



今の学問だって1000年も経てば
おかしな理屈だと一笑されるかもしれませんからね。
(西洋医学がすでに賛否両論になってるように)




前回の繰り返しになるのですが、
生きてる時代から抜け出し、その時に
風靡しているものを疑うのは難しいけれど、




僅かな人が時代を一貫するものに気づき、
そこから抜け出そうとするんですね。





話が飛びましたが、次回に続きます(゜゜)




2016/02/01

日本流リゾーム②




今回も日本流リゾームについて、
二回目です。




以前お伝えしたように、この国の民族意識の
強さは神話から続いていると発見したアメリカは、
古事記や日本書紀を歴史的事実ではなく
創作された物語だという理由で、教えることを禁止しました。



なるほど。基礎を壊せば建物が崩壊するように、
人間もまた「骨抜き」になるだろうと考えたわけだ。



心は表面的な武器と違って取り上げられませんからね。
基礎(根幹)に注目したのはある意味さすがだと言えます。
(腹立つけど)



ただ、あちらさんはそれが目に見える
「脳や心理学」からやってきていると思ってた。



これが大きな誤算でしたね。
というよりも、それが形式にできる限界ということでしょう。



日本の原点はそんな浅い場所にはなく、
もっと深い場所から自然派生的に「起こってしまう」ものです。



そして現在、その流れが起こっているのは
言うまでもありませんね。







とは言え、この原点を「自ら」正確に認識しなければ
数の力によって、また間違った方へ向かってしまいます。



例えば「日本人の魂と誇りを取り戻す」と
様々な運動が起こっているようですが、
大半は特定個人によるナショナリズム回帰です。



集団的になってるのはほとんどそう。
あんなもんやってると思考停止しますよ。



なぜならその目的は
自分だけ(自分の周りだけ)の利益だから。



そうなると必然的に利益に相反する
相手を排除するしかないわけでしょう。



結果、その集団は排除するための力を求めたり
仲間の力を結集して、とか言って正当化しだす。



そんなもの戦時中の一億玉砕(今なら総活躍)と
変わらないじゃないですか。どこに「誇り」や「魂」がありますか。



「もののあはれ」を生活の一部とする
宣長の思想を「正確に」知っているのならば、
この国が軍国主義に向かうことはまずあり得ません。



宣長死後、弟子であると自称する平田篤胤に
受け継がれたのだけれど、平田篤胤は文学とは遠い場所にいた。
(実際は会ったこともない)



そして、平田の神道はカトリック神学の構造を
都合よく「神道風に」解釈してしまってるんですね。



だから大和魂は武士道なんかと結びついて、
幕末にあんな結果になったわけです。



では、宣長の説く古事記の世界とは
どういったものだったのでしょうか。




というわけで、次回に続きます(゜゜)


二月にて





こんにちわ、坂口です(゜゜)
二月ですね、如月です。









いつの時代にも真理というものがあります。
今の時代で言えば実証主義、科学ってやつがそうでしょう。



そんなもの昔の迷信と変わらないんですが、
もしかしたらその迷信を真理だとしてしまう
ひとつの流れ自体が真理なのかもしれません。




自分が生きている時代から
抜け出すことはとても難しいですね。




別に抜け出さなくてもいいけど(笑)