2017/06/06

くそ自由



「もう頑張らなくてもいいんだよ」と、
今の自分を肯定してやることが巷の
セラピー?みたいだけど、それ見て
親鸞の悪人正機を思い出す今日この頃。


あの時代もすんごい間違えた。最近(?)では
吉本隆明もそう。悪いことやっても良い、
凡夫(欲望に生きてる人)でも往生するから求道しなくて良いってね。


「できない自分の肯定」ってそれと
似たようなもんで、自分をおとしめ、
卑下した言葉であるものを無理矢理
肯定してるだけじゃないかしらん。


どうせ私には無理だ、ダメだと言う反面、
「でもそれが私だし、それでも愛される」
という呪術的な肯定ね。なるほど、
安倍夫妻はこの幻想にハマってるわけだ。


煩わしいことを全部拒絶し、
自分のやってることに疑いを持たない、と。


それで生きていけるなら大したもんだ。





いい年した大人や経営者が無責任に
「人間は自由!あなたは自由に生きて良いの!」
と言って、それを聞いて思考停止した信者が
「嫌われても良い!私は自由に生きるんだ!」って
言ってるのを見ると、吐き気すんね。



だったら
DV男の「俺の暴力の自由を保障しろ!」や
詐欺師の「人を騙す自由を保障しろ!」は正しいのか、ってね。



ここで「善悪なんてないのよ!」とか言い出したらアウト。
「良識ある大人」ってやつの概念自体が崩壊しますわ。



✍✍



迷いもするし不安になるのは
当たり前の事。僕だって今の自分が未熟な
クソ野郎だと自覚してる。迷うのは日常茶飯。



でも逆説的言えば「だからこそ」煩わしいことを
受け入れる理由になるわけで。さっきの例で言えば
凡夫だからこそ求道するんじゃないのかしらん。



そんな個人的な意見。




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