Vincent Willem van Gogh 「悲しむ老人」
年を取った人間を見て老害と言う人はいない。
老師や長老という言葉があるように、道を示し
助言する賢者は大抵が老人だ。
それとは逆にいくつになっても己の頭で
考えず生の知恵も経験もなく
無責任な事ばかりやってる人間、
それを見て我々は老害と呼ぶのだ。
素朴で良いじゃないか、 丸くなった
証拠じゃないかと 反論する人もいるだろう、
中には責任って言葉が押し付けで重いと
言うかもしれない。
誰も押し付けやしない、全て自分の問題である。
✍✍✍
自覚なき思考からはつまらん反省の言葉しか
出てきやしない。なぜならそれは常に断絶、
限定的なものである以上、恥も嘘も喉元を過ぎりゃすぐ忘れてしまう。
長いものにも喜んで巻かれるだろう。
そんな自己欺瞞の正当化が無責任の正体じゃないか。
僕はそう思うね。
反面、自覚は継続する。
理性の奥にある無意識にまで踏み込み、
必然性や偶然性を全て自分ごととすることで
自己の変革を促す、
これを古人は腹を括ると言ってたのではないか。
なるほど。本来の生きた個性からくる自由な
行為は諸刃の剣であって、その必然的欠点は
機械の故障を直すようにはいかないと知っていたのだろう。
✍
反省から自覚や自由は生まれないと思うね。
巷で言われる「気づき」ってやつも嘘だ。
それまで気づかなかった自己を反省すれば
自由になるなんてことはないだろう。ありゃ
形を変えた自己愛だ。
自由を失ってるという烈しい自覚によって
発見に努めるという逆説的行為、その源泉が
一種の喪失感であることは間違いない。
そんな週末の個人的つぶやき。
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