5世紀のアテネにはソフィストと言われる人たちがいました。
ソフィストとは「知恵のあるもの」と言う意味です。
彼らは有権者の子弟達の家庭教師を生業とし、
権力者には観点をずらす「弁論術」を教えていたと言います。
当時は言論に優れたものでなくては
政治家にはなれなかったんですね。
それは今で言うディベートの習得を意味します。
ディベートとは弁論によって、白を「黒だ」と
言いくるめる技術、
やった人ならご存じでしょうが、あのゲームには
自分の価値観・感情は全く必要ありませんよね。
やった人ならご存じでしょうが、あのゲームには
自分の価値観・感情は全く必要ありませんよね。
自分がどう考えるかよりも賛成のコーナーについたら
とことん賛成になる為の論理を構築するといったもの。
ある意味「言葉を使った科学」。
論理武装のコツさえつかめば賛成論も
反対論もどっちも構築することができます。
ただ、オウム教幹部がディベートの達人だったように、
これを日常で使ってる人は、非常に危険ですね。
「どっちも正しくなる」という感覚が広がれば
「自分がやってることは正しい」と錯覚してしまう。
それは「理屈としての解」に過ぎません。
つまりソフィストは「知恵のある人」ではなく
「知識のある人」だったのではないでしょうか。
☞☞☞
愛を育めない人が愛を語り、
戦争を仕掛けてばかりの国が平和を語り、
自分を誤魔化す人が真実を語る。
これ全て「語り」ではなく「騙り」です。
5世紀のアテネだろうが2016年の日本だろうが
人は同じ事を形を変え、繰り返しているように感じます。
「理想の恋愛とはね・・・・」
「・・・・・・・・・それ、あんたが言う?」
悪も人によって善にすり替えられるなら、
権力者には都合が良く、被支配層からすれば生命の危機です。
だからソクラテスは対話することの
重要性を説いたのでしょう。
相手を信じ、お互いが心を開き語り合うところに
はじめて生きた知恵というものは生まれるのだ、と。
ソクラテスは生涯一行も文字を書き残してません。
プラトンが書いたのはそんな彼との「対話」です。
対話はソフィストとはできない。
王様は裸でない、と彼らは言い張るのです。
そこでソクラテスは話し相手は
本当に語るべき人だけに語り、
黙するべき人は口を閉ざした。
これは彼のとった処世術です。
孔子も黙するべき人を「危うき人」とし、近寄りませんでした。
話し相手(友)が「遠方より来たる」を待たなくてはいけなかった。
僕は彼らが実に誠実な人だなと思います。
流石にそこまでは徹底はできませんが。
☞
対話とは在り方から派生します。
難しい専門知識は必要なく、
ただ「相手を信頼し、心を開く」だけです。
皆さんも飲み会の場以外で
対話を取り入れてみませんか。
それだけで組織のわだかまりが
一気に「解ける」かもしれませんよ。
日本流フランチャイズ展開支援 office unreve
■お気軽にお問い合わせ下さい
・各種サービスのご案内はこちら
・お問い合わせはこちら
■office unreve
・office unreveのホームページはこちら
・(めったに呟かない)ツイッターはこちら(笑)
・各種サービスのご案内はこちら
・お問い合わせはこちら
■office unreve
・office unreveのホームページはこちら
・(めったに呟かない)ツイッターはこちら(笑)
0 件のコメント:
コメントを投稿