理性の働きはいつも「正解・不正解」を求め、
感性の働きはいつも「そんなものはない」と答える。
理性はそれを剣にして、相手と戦うのだけど、
戦うことでは解決しないよ、と感性は包む。
しかし感性は包みこそ、すれど
加減を超えたものでも包もうとしてしまう。
結果、直接的に相手には言わず、
やがて井戸端で間接的にものを言いだすだろう。
それが理性には我慢できない
「ほらみろ、間違いはあるだろう」と。
そしてまた理性は武器を手に取り、
感性はそれを見て「だから理性ってやつは」と嘆く。
そのどちらにも答えはないということを知らず。
バランスという、見えない場所を知らず。
それを見た神様は言うでしょう。
「良い加減にせい」、と(笑)
☞☞
最近は知識や理性や科学を批判してるんで、
「排除してるじゃないか」と思われる人もいるでしょうね。
そんな人のために(笑)
今日は誤解を避けるための補足記事です。
説明文になった時点で野暮になるのは当然ですが、
まあ仕方ありません。
見たい方だけどうぞ(゜゜)
そもそも論として、科学や理性は利用するもの。
全てを託し、決定するものではない。
例えば科学は進歩するでしょう。
つまり進歩しているという事実が
自らを不完全だと証明しています。
もちろん、その不完全性は間違いじゃない。
実際の理性は感情と対立せず、
感性と対話し、補う役割を果たすのです。
ただ、今はどうも手段(理性)が
目的として居座っている。
「どうやったら幸せになれるのか?」ばかり考え、
「何が幸せなのか?」を考えようとしないので、
「いかに社会に適応するか、成功するか?」に
人生のすべてを託しています。
問う場所を間違うと、誰だってそうなってしまいますね。
理性で問えば、正解だと錯覚してしまうのです。
☞☞☞
感性は常に先に派生されます。
自己というものは頭ではなく腑の奥から来るものです。
その場所は決して変わらない。
それが僕のリゾーム派生、感性派生です。
例えば、ある出来事に遭遇したとき、
まず一番に反応するのは狭い理性ではなく
感性であるのは、ごく自然なこと。
今までの経験を振り返ってみてください。
きっと、みなさんそうなってます。
前例がないものをいくら考えても答えはでない。
その事実もまた、理性の限界を証明しているのです。
そこで「逆もまた真なり」になることはない。
分析したものを直観することはできないのは
言うまでもありません。
そんな見える「派生元」と見えない「間」。
個人的ですが、僕はそれを実態だと認識しています。
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単色一つを握りしめるのではなく、
間にある多層的な重なりが必要です。
そのグラデーションを持っていれば、
白も、黒も、灰色も選べるけれど、
彼らはそのどれもを、正解にはしません。
出す正解は常に揺らいでます。
そして、その揺らぎを持っているかどうかは
対話をすればすぐ分かるんですね。
例えば人を「この人はこうだ」と断言したり、
「これについては、こうだ」と簡単に決定できる人は
一見頼もしくは見えるけれど、
頭の中「だけ」でおしゃべりをしている人は
対話ができない。それはレトリックでしょう。
大事なのは現実との折り合いですよね。
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