2016/04/13

君子、ソフィストに近寄らず。





5世紀のアテネにはソフィストと言われる人たちがいました。
ソフィストとは「知恵のあるもの」と言う意味です。



彼らは有権者の子弟達の家庭教師を生業とし、
権力者には観点をずらす「弁論術」を教えていたと言います。



当時は言論に優れたものでなくては
政治家にはなれなかったんですね。
それは今で言うディベートの習得を意味します。



ディベートとは弁論によって、白を「黒だ」と
言いくるめる技術、



やった人ならご存じでしょうが、あのゲームには
自分の価値観・感情は全く必要ありませんよね。



自分がどう考えるかよりも賛成のコーナーについたら
とことん賛成になる為の論理を構築するといったもの。



ある意味「言葉を使った科学」。
論理武装のコツさえつかめば賛成論も
反対論もどっちも構築することができます。



ただ、オウム教幹部がディベートの達人だったように、
これを日常で使ってる人は、非常に危険ですね。



「どっちも正しくなる」という感覚が広がれば
「自分がやってることは正しい」と錯覚してしまう。



それは「理屈としての解」に過ぎません。
つまりソフィストは「知恵のある人」ではなく
「知識のある人」だったのではないでしょうか。



☞☞☞



愛を育めない人が愛を語り、



戦争を仕掛けてばかりの国が平和を語り、



自分を誤魔化す人が真実を語る。




これ全て「語り」ではなく「騙り」です。




5世紀のアテネだろうが2016年の日本だろうが
人は同じ事を形を変え、繰り返しているように感じます。




「理想の恋愛とはね・・・・」  
「・・・・・・・・・それ、あんたが言う?」




悪も人によって善にすり替えられるなら、
権力者には都合が良く、被支配層からすれば生命の危機です。



だからソクラテスは対話することの
重要性を説いたのでしょう。



相手を信じ、お互いが心を開き語り合うところに
はじめて生きた知恵というものは生まれるのだ、と。



ソクラテスは生涯一行も文字を書き残してません。
プラトンが書いたのはそんな彼との「対話」です。



対話はソフィストとはできない。
王様は裸でない、と彼らは言い張るのです。



そこでソクラテスは話し相手は
本当に語るべき人だけに語り、
黙するべき人は口を閉ざした。



これは彼のとった処世術です。
孔子も黙するべき人を「危うき人」とし、近寄りませんでした。
話し相手(友)が「遠方より来たる」を待たなくてはいけなかった。



僕は彼らが実に誠実な人だなと思います。
流石にそこまでは徹底はできませんが。







対話とは在り方から派生します。



難しい専門知識は必要なく、
ただ「相手を信頼し、心を開く」だけです。



皆さんも飲み会の場以外で
対話を取り入れてみませんか。



それだけで組織のわだかまりが
一気に「解ける」かもしれませんよ。




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