日本流リゾーム、八回目。
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やれやれ、
ある意味、予想通りでした(笑)
全くまとまりませんしたね(。-∀-)スイマセン。
今回、細かい部分は全部はしょってしまいましたが、
他にも面白い内容がたくさんあるんですよ。
例えばこの国の神様は量子力学と同じ原理で
世界を作ってるとか、昔の人の「死ぬ」は
「萎ぬ(干からびる)」ことだったりとか。
あとやり過ぎてしまう荒神、スサノオとか
禍津日神とか直毘神とか・・・。
まあ、暇なときに古代の人の心に
触れてみてはいかがでしょうか。
ということで、今回で最終話となります。
古事記の(古代の日本の)根底に流れる
精神である真心や源氏物語にある「もののあはれ」。
その概念は語り尽くすことはできないもの。
理(言割り)ではなく、割らずに同一化しているのは
まるで西田の「絶対矛盾的自己同一」のようです。
「~でなくて、~でなくて、~でなくて」が
複数必要なのは、真心は常に揺らいでいるからでしょう。
ラカンが「日本人の精神は分析できない」というのも
そういった背景からじゃないですかね。
しかし、(個人的な解釈ですが)
その揺らぎが結果として「絶対」を歯止めしている、と。
例えば、宣長の生きる享保の時代は
西鶴の言うように「世に銭ほど面白きものはなし」
という思想がいよいよ動かなくなっていた頃ですが、
そこに宣長の学問や和歌という文化的な
アンチテーゼ(ジンテーゼかも)が起こり、
思想劇の幕が開いたわけです。
ある人は説得される一方、反撥したりしたでしょう。
「なるほど、そうか」、「いいや、そうじゃない」と。
これによって非常に人間の心が
生き生きとしたものになってますよね。
小林の時代だってそう、当時は近代(科学)という思想が
いよいよ動かなくなってきた時代だったけれど、
そこに小林の(宣長の)真心という曖昧な精神を
基盤とした思想が社会に投げ入れられたわけだ。
こんなもの、白黒なんてつけられない。
けど、それがいいんじゃないでしょうか。
☞☞
直観として「何故か知らないけれど」
深く心に向かってくるものは仕方ないんです。
その原因を考えても分かるものではない。
それが自意識(自我)ではなく、自己の中心から
来ているなら、応接している僕を信じるしかないでしょう。
だから反省や疑いが必要なんです。
間違ったものを信じるかもしれませんからね。
そこで人為的な理屈(漢意)をつけてしまえば、
自分の間違いを素直に認めることができなくなってしまう。
昔のことわざに「理屈と膏薬は何処どこへでもつく」と
言われるように、理屈はつけようと思えばどんな事にも
つけることができるんです。
宣長や小林はそんな人(インテリ)を否定し、
離れることで、自分の道を進んだんですが、
果たして、これは孤独と言えるでしょうかね。
だったら僕は間違いなく、そっちを選びますわ。
☞
さて、宣長さんは小林さんが11年かけても
捕まえきれなかった人なんで、到底僕には
説明することはできませんが、
多分に、真心で生きた人だったんでしょうね。
そしてその思想基盤は京都にいた時の遊学、
「私有自楽」な生活の時点で得ていたように感じます。
私有自楽とは自分だけの自由な空間(世界)を持ち、
自分だけの楽しみを見出すこと、これは和歌の本来でもあります。
和歌には敬語がありませんからね、
あれは制度から自由になった人間のリアルなんです。
故に和歌の本質には神代の世界(真心)が内在している、と。
宣長はそんな清濁入り混じった真心を和歌として
歌うのが、この国の文化であったと言ってるんですね。
☞
とまあ、8回に渡りつらつらと
「内部派生」・「自然派生」・「あいだ」・「揺らぎ・遊び」を
古事記に重ね、書いてみたのですが、
キリないし、疲れたんで
とりあえず、このテーマは終わります(笑)
これがうちの日本流かと、少しでも理解して
いただけたのなら、書いた甲斐があったってもんです。
ちなみに昨今では愛国と言えばすぐに「右翼」だと
批判されるのですがバカおっしゃい。本来の愛国は中道ですよ。
「肉が好きか、魚が好きか」と聞かれても
どっちも食べる僕からすれば「美味しい方」や
その時の気分で決定するとしか答えられないですからね。
クリスマスだってハロウィンだって正月だって、
みんなが楽しけりゃ、それでいいんです。
見るべきはそこじゃないですかね。
てなわけで、今週は長崎でやってる
中国のお祭り「ランタンフェスタ」に行ってきます(笑)
中国のお祭り「ランタンフェスタ」に行ってきます(笑)
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