さて、office unreveは
加盟店による「自立と自律」をコンセプトにした
フランチャイズ構築を提案しているのですが、
これらの目的は(大げさですが)全て「自由」の為、
フランチャイズの語源のごとく、まさに「解放」を目指しています。
ちなみにみなさんは「自由」とか「解放」と聞いて
どんなイメージを思われるでしょうか^^?
たぶん、多くの人が
「ポジティブ」な意味で捉えてますよね。
「現代のストレスから自由になる!」なんて、
まさにモヤモヤ感を一刀両断したような感覚です。
ただ、「自由」が持つ本来の意味を明らかにせず
やれ自由だ解放だと振りかざす人達に対し、
僕はちょっとした怖さを感じてしまいます。
近代、よく言論の自由や表現の自由など、
その解放を声高に叫んでいるのを目にしますが、
まずはその意味自体を理解し、
その上で語ることが本来ではないでしょうか。
ということで、今回は壮大なテーマである
「そもそも自由論」について書いてみようと思うのですが、
もしかすると僕の定義する自由と
みなさんの定義する自由は違うかもしれません。
そこは一つ、ご了承のほど。。。。
さて、自由とは「勝手気まま」ではない、
ここは明確にラインを引く必要があります。
自由や解放という言葉を使えば、
全ての行為は正当化される、と。
さも免罪符のようになっていますが、それは間違いです。
「俺は束縛されたくない、だから自由になりたい」。
「好きなことだけやりたい、だから自由になりたい」。
それは僕の定義する
自由や解放とは言いません。
それは単なる「欲望の解放」に過ぎないのです。
☞ ☞
こういった個人の欲望には
「対他者」の感情はありません。
そこにあるのは、超のつく
「個人的な満足」。それだけです。
現在、西洋から輸入してきた自由が
さも本来の自由だと言われているのですが、
その前提にあるのは西洋の個人主義であって、
個人主義とは上記のように
他者を視野にいれないものです。
(故に「隣人愛」が必要だったのでしょう)
つまり近代自我の自由は、相手への
心配りや配慮を無視し、
自分だけの欲望を満たそうとする行為なんですが、
それを解放とか自由とか言われた日には
たまったもんじゃないですわな。
それを僕は自由とは言わず、
無責任な「暴力」と呼びます。
個人の欲望の解放というのは
暴力的なエゴイズムと紙一重ですからね。
個人の欲望=暴力的支配≠自由
ここまではオッケーですか。
では、次へ進みましょう。
☞ ☞
じゃあ自由とは何か。
本来の自由は欲望の解放なんてものじゃありません。
逆に欲望自体から解放されることもあるでしょう。
HP内でも少し触れているのですが、それは
平等や解放を叫ぶヒステリックな主張はなく、
批判精神も存在しないもの。
僕の定義する自由とは「自らに由る」こと、
「自在な自分」になることに他ならないわけです。
だからこそ自己の確立が必要なんですね。
自分軸とは「ブレない欲望を知る事」じゃありません。
ん、長くなりましたな。
次回に続きます。
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