2012/10/17

現象と経験

僕は経済学など、人間の行為を数字で測るなんて
ナンセンスだし、ある意味冒涜だと感じているのですが、


現象哲学者であるフッサールもまた、
そういった考えの人だったようです。


そもそも、あらゆる学問には「人間らしさ」が大前提にあって、
それをより良く、豊かにすることが目的のはず。


今はそれとは逆で、数字や論理に人間が支配(説明)され
その人間らしさが失われようとしている気がします。



それは科学の進歩、すなわち帰納的手法によって
「絶対的な客観性」こそが正しい、と信じられてきたからでしょう。


客観性とは万人が納得する根拠である以上、
その証明性には数字が一番有効なのですが、


そもそも数字自体も人間が作ったもの。
僕らの価値は年収では測れないし、能力も数字では出せません、
人の美しさだって、決してランキングで比較できない。


今日はそんな「現象」についての小話でも。







現象学とは、経験世界における「本質」を追及するもの。
現象学が心理学の基礎になっているのも
こういった対象が科学では明らかにできない、という理由からでしょう。


よって「正当性」や「真理」は、自らの主観的な経験から
離れた客観性を持つものだ、という常識に対し、フッサールは
「それは間違ってる」と言います。


本質とは思考の限界や領域を越えた所にあり、
それは直観的な所へ行き着くのだ、と。


客観性は全くないけれど「見えてしまう」
何だか分からないけれど「そう感じてしまう」


そんな自分からすれば疑う事ができないもの、
すなわち自己の中心からくる直観的経験こそが、
全ての学問のコアにある、と。



そんな概念の本質を明らかにすることを
現象学では「解明」と言われます。



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見えないものなら何でもいいです。
例えば「彼女を愛している」でも
「心地がいい」でも「こりゃ美味い!」でもいい。


そして、そんな概念対象として捉えているものが
一体「何をもとに構成されているか?」これが解明の手法です。



以前書いたハイデガーは形而上に、ヘーゲルは精神に
その本質を置いたのですが、フッサールはそこに目を向けず、
あくまでも形而下(認識)の立場から離れませんでした。
(フッサールが新デカルト主義と言われるのはこのせい)



カントに近いのですが、もっと広義ですね。
失敗こそあれ、現象学的還元を始め、間主観や他我、 エポケーなど
フッサールは独自の単語を使ってそれを掴もうとしています。



これも偏にかれの「本質に対するあくなき追求」によるもの、
かれは世界が数値化・数式化されるのを何よりも嫌悪したのです。



それは我々のなかで物象化されていない
「答え」を純粋に探そうとしすぎて、行き着いた結果かもしれませんね。



面影とシステム

unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます。


今日は「守破離」の守(型)について。
僕がご支援しているFCで起業したいと思われてる方に
参考になれば幸いです。



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さて、unreveの目指す型とは主観の認識、
つまり演繹的な「おもかげ」です。


能の大成者、世阿弥が観阿弥の口述を記録したという
風姿花伝は、この「おもかげ」を型としています。


例えば、同じ種類の木であっても、その枝葉は全て違うように、
同じ植物であっても、その根の張りようが異なるように。


同一ではなく表出する形象を「真似ぶ」こと。
それはまさに帰納的テキストではなく主観から来る認識によるものです。


☞ ☞ ☞


小さい頃、近所のお巡りさんに憧れた少年が
警察官を目指そうとした際、必ずそのお巡りさんの「おもかげ」があります。


母親が台所に立って料理をしている姿もそう、
自分が母親になった際、その「おもかげ」を見るでしょう。


尊敬できた上司や先輩がいた方なら分かるでしょうが、
学んだのは「やり方」ではなく、生き方や考えの方ではないでしょうか。


そんなおもかげ、名残。
記憶によって心に「象(かたど)られた」ものは
他者に説明できるものではなく、自分だけのもの。



それはデジタルでシステマティックな「コピー」と違い、
目に見える肉体的なものの奥にあるものの「再帰」です。


言葉ではなく構造でもない、これがunreveの目指す
日本流の普遍化、「型」です。



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西洋は言語的構成体(テクスト)による普遍化を目指します。
機械生産的なものには再現性はあれど、それはオリジナルの消失を意味します、


マニュアルに原本という概念はないですよね。
僕の家にあるパソコンの取り扱い説明書は
あなたの家にある説明書と同じ仕様です。


動く原理や壊れる原因は全く同じ。
閉鎖されたシステムは、逆にそうでないといけません。



昔のテレビのように、
本体を叩けば映る、だと困りますよね(笑)


成功されている経営者とお会いした際、
成功した方法(正解)とその説明はそれぞれ違いました。


しかし(全て該当するかは分かりませんが)、
それぞれに共通したパターン(型)はとても類似していた。


そんな抽象概念から言語としてすくいだしたものが
編集・対話・場・間・拍子・ゆらぎ・・・といった、非線形・非構造です。


非線形・非構造を、螺旋的に上がるように「構造化」する。
そんな矛盾を統合させたのが日本の継承にはあるような気がします。


それは決して累積された素因から判断できるものではなく、
また、還元・分析できるものでもない。


だから過去の文学者は進化ではなく、変化と呼んだのでしょう。
リゾーム派生も無理矢理言語化してますが、そもそも言葉にすること自体がナンセンスです。


本当の価値(知価)とは、同じモノサシで測れない。
だからこそ独自、僕はそう思います。



ただ。僕の知ってる女性の考えるシステム化は、
愛があるから好きなんですけどね(^∇^)



閑話休題。
そんなわけで、継承の守、型とは
方法の先にある「オモカゲ」を掴むものなんですね。




みなさんに学ぶべき型はありますか?


2012/10/16

柔らかな束縛




リゾームは非線形、複雑系を踏まえた
ビジネスモデル。





それは資本主義の土台が理論操作可能な
ヒエラルキーから、理論では操作不可能な経済へと
パラダイム転換が生じているという予測から発案したものです。





散逸や自己組織化、創発などは、
閉鎖型では生まれません、
感情などを内包した生命的システムのみ、と言えます。





もちろん、感情だけでは片手落ちであって
大事なのは理論と感情を繋ぎ、一つのループとする事。
ミクロ・マクロ・ループは日本ならではの概念です。



そんな性質を持った複雑系経済に
対応するためには、どうすればよいのでしょうか。




今日はそんな小話を。





複雑さの帰結―複雑系経済学試論/NTT出版


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そもそも複雑系とは、理論が通用しない事から
意図的に設計、構築、管理ができません。


どのように構築され、管理できるのかなど、
正確に予測できないのです。





なぜなら我々個人が管理されず、自由に織りなす
行為(状態)が生みだすものである以上





階層を作り、上が作ったルールで管理しようとした途端、
閉鎖系となる。エントロピーよろしく崩壊するのです。



そこに管理の手が入る以上、必ず抑圧が生まれる。
よって組織においては適度な自由を個人が掴む必要があります。



ニュアンス的には「柔らかな束縛」とでも言うのでしょうか。



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内に外に開かれる。
フレキシブルな企業、風通しの良い企業、





止まることなく流れ、常に前向き、クリエイティブ。
自らを楽しめる人材が集まり、交流し、
そこから新しい発見が生まれていく・・・・



これは言葉にするのは容易いのですが、
いざ実行するとなると別問題です。





閉鎖系である管理社会に馴染みすぎた我々にとっては
開放系に憧れこそあるけれど、理解しずらいのです。



加減を掴まない自由は「放任」と同義である以上、
自己組織化を生みだすことはないでしょう。



下手すれば、とんでもない結果を迎える可能性もある。



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そこでリゾームの概念の登場です。
それは「管理」でも「放任」でもない第三の道です。



清水博氏は「動的なリズムが場の形態を形成する」と言ってます。




リズムとは中村雄二郎のリズム論、
unreveのいう拍子です。




まさに、秩序は動的な勢いの繰り返しなんですね。



生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理 (中公新書)/中央公論社


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例えばプレゼン会議という「場」で、
個人がプレゼンを行う場合が近い。





クライアントがそれを見ている。
そこにはパワーポントや動画など、場としてのシステムがある。





プレゼン側は、あらかじめテーマやシナリオ
必要な情報を与えられているけれど、





いったん話しだすと、あとはもうその場の雰囲気で
臨機応変に演じるわけです。





つまり、大まかな筋という拘束条件のもとで、
大ざっぱに決められるのですが、





具体的にはプレゼンターとクライアントの相互関係によって、
選択されたり、再構築しながら進行させていくでしょう。





それは、全体として一つの筋を生成的に自己組織しながら
展開していく、故に場違いな発言はできません。




まsない自己生産しながら自己組織に組み込んでいくという、
意味のある操作情報がある、これが「場の動的なリズム」です。





ただ、そこに至る前段階が必要なのですが
それは時間がある時にでも。







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長くなったのでまとめます。



システムは外部によって画一化されますので
閉鎖系となります、それでは相転移は生まれない。



自立や自律は「自覚」によって生まれます。
それが内部から起こるまで、待たなくてはいけない。



近代は、その自立性を急ぐあまり、
結果として個(自我)の成長となりましたが、



本来の日本は仏教を基礎とし、
「場の文化」を生み出した経験をもつ、世界でも珍しい国。




その自覚さえあれば複雑系の経済はこの国にとって
歓迎すべきものとなる気がするのですが、皆さんはどう思われますか^^?


2012/10/15

ホモ・ルーデンス



「遊びの文化」を最初に生みだしたのが、
ご存じギリシャやローマ帝国。この時代の労働は、
制度によって全て奴隷がやっていた為、
市民や政治家達は、やることがなさすぎたのが背景にあります。


歴代皇帝はどんどん記念日を作り続け、
しまいには1年の半分が休日となってしまった、と。
そんな快楽都市、ローマではありあまる余暇
(あそび)をどうにかしようと試みた結果、
あれほどの哲学や文学、芸術や娯楽が生まれたようです。


言わば、ローマ文化は莫大な富による
「あそび」によって作られたんですね。
それは後に「西洋文明」として引き継がれていきます。






剣闘士が戦う闘技場や、競馬場や大浴場など、
皇帝は「パンとサーカス」を国民に提供しました。
※パンとサーカス・・・・・食料と娯楽の事


まさに地上のユートピアのようですが、諸行無常の世界、
当然、それが長く続くわけがありません。栄華を極めた
ローマ帝国は、やがて内部腐敗を起こし、衰退から滅亡へと向かいました。


惰性と堕落は加減を超えた「楽」から派生します。
このパターン(拍子)は時代や場所を問わず、変わらない。



僕はこれを「毎日遠足効果」と呼んでいます。
毎日やってたら飽きるだろ、ってね。


☞ ☞


こう書くと良くないイメージになっちゃうけど
この時代のあそびは以前の記事で書いた
「行動と行為」でいう「行動」の方、本来は
人間の本性に沿った自然に派生する感応行為でしょう。


見れば日本はそれが分かってたようで
平安時代の歌謡集「梁塵秘抄」を見ると
そんな、あそびの歌を詠んでいますね。


遊びをせんとや生まれけん
戯れせんとや生まれけん


遊ぶ子供の声聞けば
わが身さえこそゆるがるれ。


(遊女の罪悪感を綴ったという解釈もありますが)
自然のままに、楽しい事をやるのに対しては、
何の罪悪感もないんですよ。



☞ ☞


遊びの文化を研究したヨハン・ホイジンガは、
遊びが大衆化し、陳腐化するのは危険だとしました。
大衆化されることによって、軽薄さと衰弱を生みだすと感じたのです。


当時はヒトラーがヨーロッパ侵攻を狙ってた時代。
ゆとりも余暇も遊びもないファシズムを見て、
危険だと思ったのでしょう。その経験をもとにヨハンは
「ホモ・ルーデンス」という作品を書き上げています。


ホモ・ルーデンスのルーデンスとは遊びです。
ホモ・サピエンスは「人間は理性があるから人間」、
ホモ・ファーベルは「人間は物を作るから人間」。



つまりホモ・ルーデンスは
人間は遊びをするから人間なんだよ
という彼の主張なんですね。


人間と動物の違いを一つ挙げるとするならば、
生存欲求だけで動く動物とは違い我々は踊り、
絵を描き、歌う。


物語を書き、それを読み、新しい概念を作る。
そういった生存と関係のないことこそ、
人を人たらしめているのではないでしょうか。




正論居士



正論居士(せいろんこじ)という言葉がある。


居士とは気質を指し、意見に対し
反論するだけで対案を示さない人の事。
あくまでも他人事とし、主体的に取り組もうとしない、と。



自分の意見を絶対としている為、
対話は全く生産性を持たない。
重箱の隅をつつく事が自分の能力だと勘違いしている。



当然、納得させる事は難しくなり、
タイミングが遅れ、失敗しまったら
「やっぱり、私の思った通りだ」とさらに過信してしまう。



私が支援する際、必ずお断りするのがこのタイプである。
使う労力が半端ではないのだ。



もし○○の場合は?○○がもし起きたら?
もし○○であるとするなら?・・・・etc



仮説に「if」を付けたらどんな些細な事でも
取り上げられる。これは当人に危機感が
ないのではない。あるからこそ、なおタチが悪いのだ。



ただ当たり前の話だが、先の見えない
事業を始める際、根拠なんてものはない。
その状態で根拠を求めるのだから、
必然的に事業は水平線のままである。





何にでもそうだが、何かをやる際、
どうしても避けられないものがある。
それが予測と予想における差異、不確実性である。



当たるも八卦、当たらぬも八卦でやるのではない。
どんなに努力を尽くしても、精度を上げたとしても、
あらゆる将来の予測には不確実性が含まれている。




この不確実性というものを嫌うならば、何もしない事だ。






コムニタス

些細なことでも怒ってしまい、感情を抑えられず、
感情がコロコロ変わって自分でも疲れる。


周囲に理解してもらいたいが、なかなか理解してもらえず、
見捨てられることを極度に恐れ、なりふりかまわない努力をする。


そんな人を境界性人格障害(境界例)と言うらしい、
現代病の一種である。


さて、ネットを見ればこの境界例に近い心性を持っていると
思わずにはいられないサイトが数多く存在する、なぜだろう?



象徴人類学者ヴィクター・ターナーの説く
「コムニタス」という概念がある。


それは通過儀礼といった人間関係における在り方であり、
身分や地位財産男女の性別や階級とは違い、
非構造である環境において、自由で平等な相互関係を指す。



ネットの「完全なる表現の自由」はコムニタスとも考えられる為、
境界例のコムニタスへの希求はきわめて強いのだ。


慢性的な空虚感。そして感情の不安定さや絶望感。
これらを癒し、自己を支えているのがコムニタスであるネットなのかもしれない。



☞ ☞ ☞



このような、コムニタスと境界例を関連づけたのは
心理士を実質的に生みだした河合隼雄である。



境界例には構造的なものに対する徹底的な弱さと、
コムニタス的関係様式への絶対的希求があるとしている。


組織の一員として存在することができず、
コムニタスの様な自由で制約のない世界でしか、自己を保てないのだろう。



しかしコムニタスではアイデンティティは確立できない気がする、
重要なのは先にある「場」ではなく、その環境に身を置く自己の認識ではないだろうか。



私は独立する以前、組織の中間管理職として働いてきた、
当然組織は不条理なことも多いし、管理によるストレスも大きかった。



それでもこうやって健康でいられるのは理由がある。
ここでヒエラルキーを否定してはいるが、悪い所ばかりではなかったのだ。



毎年飲み会や旅行などの行事をまとめる幹事をやっていた。
仕事ではゴタゴタの多い職場であったが、飲み会ではガラリと変わり仲が良い、
これを見るのが楽しくもあった。


QC活動でメンバーと白熱しつつ、最終的に素晴らしい賞を頂いたのも、
衝突した上司が一番信頼できる人になったのも、ある意味「立場の差異」があったおかげだ。



結局何が言いたいかというと、我々の関係性とは「安心した土台」がなければ
脆弱なままなのである。



例えばコムニタスでは自由でこそある反面、社会的身分も役割もない。
つまり安定した土台自体がないのである。



よって常に生身がさらされ、互いに傷つきやすい関係であり
それはやがて、争いのタネとなる。



つまりコムニタスの状態のままでは、維持する事が困難なのだ。



仮にコムニタス的だった集団があったとしても、やがて「秩序」が起きる。
プリコジンの言うように、開放系の我々が無秩序に集まってたとしても、
散逸構造でいう「新しい秩序」が生まれるのだ。



これは実にもどかしい選択である。
つまり自由性は「常に変化し、脱皮することで保たれる」という事だ。



固定した瞬間、秩序が生まれる。
それは安定こそあるけれど、階層的な構造が必然的に同時発生するのだ。


聖人君主のような人格論からかもしれないし、ディベートの結果かもしれないし、
おかしな民主主義のような多数決かもしれない。


このように、自由な環境であっても
決断する時において我々は、この自由(自らに由る)を崩壊させるのだ。


しかしリアル社会と違い、ネットでは都合のいい一元論が通用する。
だからこそ境界例の多くはコムニタスとして帰依しているのだろう。



☞ ☞ ☞



ただし、これは非適応的な信念である。
非適応的な信念(思いこみ)と現実はリンクしない。


しないというより、認識で「我々が非適応になる」のであって、
逆に自由でも愛され、守られている人だっている。



それはその人が特別ではない。
その人の認識が「適応的」なだけなのだ。



時代は我々の認識を変える。
変わった認識が感情を決定し、決定した感情の集合体が時代を変える、
すなわち「多即一」、これが「場の創造」である。



コムニタスは場の創造が困難だ。
常に孤独で戦う為、認識が不安定となる。



それが可能なのは一部の芸術家や天才といったものだ。
彼らはどれだけ批判されても、一人で確固たる世界認識を創造する。



そして、その世界認識にやがて世間が追いつくのだ。
カフカ、宮沢賢治しかり、ゴッホ、アボガドロ、ロバチェフスキーしかり。



☞ ☞



リゾームが派生する場合において、
これらの概念は重要である。




なぜならリゾームは単純にやればコムニタスである。
それでは責任の所在も動機も意味もない、ただの遊び場である。




では何が必要か?
もしかしたら来月分かるかもしれないんだなぁ(笑)

見えすぎるのも考えもの




坂口安吾が出したブルーノ・タウトと
同名著書「日本文化私観」では



真の模倣とは発見であり、インスピレーションは、
多くの模倣の精神から出発し発見によって結実する、とあります。



そこには必然性も決定的な素因もない。



昔から日本に行われていたことが、
昔から行われていたという理由によって、
日本本来のものだとは言えない、と。



故に、タウトが愛した桂離宮が高尚であり、
東照宮が低俗だというものではなく、



「ミカタ」を変えてしまえば
どっちもどっちだというのです。



なるほど、安吾は物事が見えすぎていたのでしょう。



☞☞


さて、氏は近代文化を「芸道、地に堕つ」と
以下のように批判しています。



近頃は劇も映画も一夜づくりの安物ばかりで、
さながら文化は夜の街の暗さと共に明治時代へ逆戻りだ。


蚊取線香は蚊が落ちぬ。きかない売薬。火のつかぬマッチ。
しかし、これは商人のやること。芸は違う。



芸人にはカタギがあって、権門富貴も屈する能あたわず、
芸道一途いちずの良心に生きるがゆえに、芸をも自らをも高くした。


芸は蚊取線香と違う。
けれども昨今の日本文化は全く蚊の落ちない蚊取線香だ。


どんなヤクザな仕事でも請ける。
二昔前の書生劇でも大入り満員だというので、
劇も映画も明治の壮士芝居である。



職人芸人の良心などはくそくらえ、
影もとどめぬ。文化の破局、地獄である。


かくては日本は、戦争に勝っても文化的には
敗北せざるを得ないだろう。


即ち、戦争の終ると共に欧米文化は日本に汎濫し
日本文化はたちまち場末へ追いやられる。


芸人にカタギがなくては浮かぶ瀬がない。芸の魂は代用品では間に合わぬ。






芸道とは能楽や世阿弥、歌舞伎や人形浄瑠璃の他、
華・茶・武術など、あらゆる道を総称したもので、



その真意は、芸術思想と倫理思想とが交叉する
思想領域を切り開くことです。



世阿弥が利己的な精神なく修行することによって
その功徳が生まれ、極め尽くすことが寿福であると
説いているように、「前提」が全てを決定するのです。



なるほど、芸道のための自己練磨ではなく
自己利益(寿福)の為の芸道であれば、廃れてしまう。



安吾は目的を取り違えれば本質を
見失ってしまうことを、芸道に例えたのでしょう。



☞☞



本質主義とは余計なものや無駄なものを削ぎ落とし、
誤魔化しのないシンプルなものを目指す者ですが、
氏はまさにその道から逸れることはありませんでした。




今の時代にいるならばどんな作品を書いたでしょうか。
少なくとも、アフォリズム的なものは書かないでしょうね。




2012/10/11

花鳥風月



こんばんわ、坂口です。
9月も後半に入りましたね。




ビジネスに励むのもいいですが、
せっかくの秋です。




ちょっと時間を作って、
花鳥風月を楽しんでみませんか?










さて、僕らがモヤモヤした時って
お酒を飲んだり、カラオケで歌ったりと、
発散の方法は色々あると思います。





現代は、和み、とか癒し、といったものを
「意識的に」作ってるんですが、




一時的には解決できても、
なんだかこう、心からスッキリしなくないですか?




まるで慢性的に蓄積されてる、っていうか。
僕はこれって、理性の限界やと思うんです。





つまり「あたま」って万能じゃないな、って。





☞ ☞



アメリカなんかは意識の国ですから、
薬だったり、音楽だったり、香りなど、
あらゆる解決方法が存在します。





日本でも、α波がどうだとか、
エンドルフィンがどうだとか、
物質・数値化しているようですが、





実際のところ、どうでしょうな。
あまりハッピーじゃないような気がします。





僕はそれより、自然の景色を眺めたほうが
よっぽど安上がりで癒される、という考えです。




放っておけばどうにかなるさって(笑)
最近、その傾向が強いですね。





☞ ☞





養老孟司氏は自然の定義を
人間が作ったものではない、としています。



逆を言えば、作れない。
それが自然と意識の違いだっていうんです。




昔これ聞いた時にですね、
なんというか、すごく納得したんですよ。





エントロピーで考えてもそう。
意識は秩序を作るけれど、
その分の無秩序がどこかで生まれてるな、と。




ヒーラーの癒しの言葉だって立派な意識ですよ、
そこにはどうしても意図が入ってる。




だからいくらブロックを外そうと、
思考の書き換えをしようと、
潜在意識を書き変えようと、




それら全ては僕らの意識がやってる、と。
これって、逃れられないですよね。




ってことは、その意識的な癒しは
どこかで無秩序的な荒びが生まれてる、と。



だから、人の作ったメソッド(秩序)って
どことなく、危うい感じがするんです。





☞ ☞



以前、潜在意識にアプローチする
成功哲学の内容とか見てみましたが、




よくよく考えたら、意識できないからこそ
潜在無意識であって、



これを意識的に表層化しちゃうと
逆に危険だな、って思いました。




北風と太陽よろしく、問題を
解決しようとすればするほど、大きくなる。




旅人のマントっていう問題を意識的に
解決するために、風で吹き飛ばそうとしてるでしょ。




どっこい本人は抵抗するわけです。
あとはもう、力比べですわ。




その結果が顕著に出ているのが、
自殺率や鬱病や癌じゃないかしらん。




これら病理はGDPが高い国ほど多い。
普通に考えたら逆にならないとおかしい。






不思議だけれど、成長した豊かな先進国ほど
人って生きにくくなってるんです。





そういった「わけのわからないもの」って
最近、あちこちで見かけませんか。





☞ ☞



日本って本来はテーマにある
花鳥風月を上手に取り入れた国です。



意識を意識で解決する
っていうやり方をちょっとだけ置いといて、





ぼーっと野生を眺める時間とか、
無意識で「ついやっちゃう事」とか、
それを大事にしたいな、って思ってます。







ノープラン、ノーリターン。
ドントシンク、フィールってね(笑)


質を高める時代



デフレである現在、製品を安くするために、
様々な企業努力が行われる・・・・と言われますが、
企業の中にはコスト削減を
「製品の質を下げる努力」とイコールにしている所があります。



これが例えば構成要素ごとに検証し、
入り数(企画)を変え、安くするのはいいでしょう。
(6個入りを5個入りにしたりとか)



しかしこれが商品そのもの、
つまり製品の構成要素を安価やものにしたり、
補強すべき部分を安価なもので対応するのは、
ただの「劣化商品」を作っているにすぎません。



それをいかにも劣化していないように
外見を飾り立てる、というものをコスト削減だと思っている。



なるほど、これだけ劣化品が増えたのも、納得できます。









当然、それらは短期間で壊れたり、使えなくなりますが、
それを安いから買ったのであれば怒りもありません。



「まあ安物だし、いっか」と。



その考え方は、あらゆる側面において、
「使い捨ての発想になっている」のに気付きません。



製品に対する信頼なんてないけれど、
なぜか、安さを提供する企業には不思議な信頼がある。



否、「あった」というべきでしょうか。




本来、この国は「質」を高める文化であって、
低質なものは体感的に嫌う。そうじゃないですか



☞ ☞



もちろん、最初から「使い捨て」を目的とした
商品であれば、問題ありません。




しかし体内に入れる食事は、言わば一生ものですし、
家などは本来資産であって、耐久消費財ではない。




物を大事にし、大切に使う、という感情は
我々が持つ、基本的な感情、




信頼と保証は似てて異なります。
それは無形と有形の違いではなく、姿勢の問題です。



2012/10/10

間違った学び



ちょうど300年前に出た思想本に「弁道」・「弁明」というものがある。
著者は荻生徂徠、伊藤仁斎と同じく古学派である。




荻生徂徠の思想のバックボーンは孔子、儒教である。
しかし儒教を体系化した朱子学は全く役に立たない空論であると喝破した。





それは伊藤仁斎も同じである。
それほどまでに批判された学問、それが朱子学である。







荻生徂徠の時代はその朱子学が公式学問である江戸時代、
よってその思想は当然、正反対となった。






反進歩・反発展・反成長。
反都市化・反市場経済・反啓蒙・反自由・反民主主義。







政治、経済、世間と
見事なまでに対立した学問が荻生の古学思想といえる。







朱子学は馴染みのある言葉だが、あまり知られていない。
調べれば「自己中心的な合理主義思想」だと言う事が分かるだろう。







朱子学が生まれた時代は中国が侵略された時代であり、
その反発から生まれた学問でもある。





よってその根底にはゆがんだ
自国愛を捉えることができる、



我が文化こそ絶対という、
排他的精神から朱子学は生まれたのかもしれない。




☞ ☞ ☞





朱子学にもう少しだけ触れてみよう。
朱子学は体系化を目指した合理的思考によって作られる。





宇宙万物の究極の根源に「太極」という原理を作り、
この太極は陰と陽に分かれる、とした。





陰陽の変化によって水火木金土の五行が発生し、
春夏秋冬などの現象が形作られる、と。



問題はここからである。
朱子学が説明しやすく、実践が困難な原因でもある。



☞ ☞



太極とは宇宙万物を超越した究極の「理」であり、
あらゆる存在には「理」があるとした。



そこには「気」も一緒に内在しているという。
つまり「理と気の混合」が人間だとしたのだ。





誰もが潜在的に「理」を持っているけど、
それを邪魔する「気」もある、と。





それは「気質」であり、個人によって違うというのだ。
※ここからは話半分で聞いてもらいたい。




朱子学では、その気から欲望が生まれるとした。
我々人間は、気によって情念や欲望が起こり、



欲望によって本質的「理」が曇っている、としたのだ。
朱子学によれば、悪が発生する場所は「気」である。




長年の読者の方なら、この辺りの定義から
「漢意」になってきているのが分かるだろう。




そう。
予想通り、そこから先の答えは「悪い気の排除」である。



朱子学で言う聖人は、与えられた気が濁っていない。



よって「理」が分かるとし、善悪の定義を
「気」の清濁の差であるとした。




それをキレイにする行為、
これすなわち「修行(苦行)」の始まりである。



☞ ☞



情念や欲望を抑え理を出す事、
それが「毒抜き」として広がったのだろう。



ぱっと見、自然な流れだが、
そこには恣意的な「意図」がある。




自然法則であった「理」と「気」の理論が、
「かくあるべし」という個人の思想になっているのだ。









このように朱子学とは、一つの原理(理)によって、
あらゆるものを理論体系化したものであり、
極めて合理主義的な思想である。




この「人間はこうあるべき」という
原理を絶対化しているので。
本来の我々が持つ多様性は否定されている。




個私はこれには賛同しない、
悪を認めるのではない、形而上の
「客観的絶対性」を認めないと言う事だ。





それは選択肢のない
「決定論」に従う事と同義である。




形式、硬直、理論、体系・・・
まさにマックス・ウェーバーの「理性の鉄檻」の世界である。



世の中に起きた事象をすべて説明する、という理性。
そこから生まれる体系化された無数の「教育・思想」。




私はそれが純粋に嫌いだ。
そこから逃げるという選択肢だけは捨てたくはない。



私の考える世の中とは変化そのものである。
予測不可能・説明不可能である。




そんな現実社会に全く役に立たない学問を
否定した伊東と荻生は、そこから独自の学問である古学を生みだしたのだ。




「後記」



ちなみに儒教は高い徳を持ち、品位ある生活こそが
人生最大の目的、という教義だ。



よって儒教信仰者は、高い徳を持ち、
世界の為にお金を使うことを正当化する、



故に、その目的を果たすには
どんな汚い儲け方をしてもかまわない、と解釈されている。



汚く儲けてきれいに使う、
つまり現世主義では不正や汚職を
正当化させてしまう欠点がある。



最近、これに近いセリフを経営者からよく聞く。
多分、それが儒教の影響とは本人は思っていないだろう。




今の経済競争を俯瞰すれば
個人派生の「宗教・思想の対立」なのである。



2012/10/08

大海へ接近する方法


フランチャイズ構築と書けば、
建築家のような仕事のようですが、
一番似ているのは農業かもしれません。



種をまいて育てるのが仕事であって、
そのオリジナリティ(独自性)とは
「見えないもの」から「見えるもの」を作ること。


よって種さえ選べば、あとは
自然に大きくなるのを見ているだけです。


なぜなら、大きくなる力は
むしろ「種子」の方にあるから。



農耕的、科学的、芸術的、
哲学的、宗教的・・・・
ビジネスの根幹は様々ですね。




今日はそんな小噺。




☞ ☞



現在、文化的、芸術的な概念と
ビジネスとを融合しようと、
実に多くの方が試みているようです。



素人ながら僕もやっているのですが、
その異質性のバランスが崩れると、
すぐに遊離的な概念となってしまいます。



素泳ぎで大海の沖を一生懸命
泳いだとしても、大海の流れに逆らえないように、



そこまでいけば、商売なのか、
芸術なのか、学術なのか、宗教なのか、
全く区別ができなくなる。




それで何度溺れたことか(笑)




海と陸とを分ける境界線の見極め、
渚より大海に接近しなくてはいけない、


この方法の確立が必要でした。











渚には、実質的な部分が
それこそ、たくさんあります。



手に触れる事ができる消費財や
耐久消費財、サービスがある。



反面、芸術はそうじゃない。
まさに大海へと飛び込むことで
流れそのものの表現です。



音楽・芸術・ダンスなども、
解放された表現の一つであって、



我々はそこに自然の本性を感じ
大きな感動を覚えるんじゃないでしょうか。



問題はそこにどうやって
現世的な利益を繋げるか。




これがきれいに結べないと
ボランティアか、心ない資本制になる。



この「結び方」さえ形式化すれば
スッキリするんだけど・・・と



つい漢意が出てしまう今日この頃(゜゜)