2019/04/24

暗黙知について



一度感覚を掴んだら一生忘れることは
ないけれど、覚えるまでは「なんじゃこりゃ」
ってのがBS、PL、CFの三種の神器。
自転車の乗り方と似てますよね(笑)
体感知で掴むものって言葉じゃ説明できない。
勘やコツは経験値のなせる業ですよね。


マイケル・ポランニーはそれを「暗黙知」と
命名しました。日本では野中郁次郎氏と竹内弘高氏が
SECIモデルを作り、形式知と暗黙知の移転を現してますね。



下図のように、共同化 (Socialization)、表出化 (Externalization)、
結合化 (Combination)、内面化 (Internalization)によって
見えないものが見えるようになる、と。





ただ僕はこのナレッジマネジメントに
(批判ではなく)ちょっと違和感を
覚えます。セキモデルは西田幾多郎
純粋経験をベースにしているのですが、
「あれ」は調べれば調べるほど、
普通の人間には到達できないもの。



暗黙知って言葉として記憶できるものじゃない。
保存された過去の客観的事実をそのまま
表現しようとすればするほど、記憶への回路は閉ざされちゃうんじゃないかしらん。



例えば資金繰りで苦しい思いをした人にしか
分からない、あの「どうしようもない」感。
「それどころじゃない」時の「それどころのなさ」。
下腹にズドンとくる、あの重みとか(笑)



親にならにゃぁ、親の気持ちは分からないですよね(現在、体験中)



***


キーワードとはよく言ったもんで、言葉とは
本質が詰まった箱を開ける「鍵(キー)」に過ぎない。



個人的にそう思ってます。
ただそう思いたいだけなのかもしれませんが。




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