2018/03/03

人は人、吾はわれ也。



3月に入りました、弥生です。


ちなみに弥生の弥は「いよいよ」
という意味。「長い冬も終わって
いよいよ草木が咲きだしますよ」という
明るい意味を持っているんですよね。


春は新しい生命の声が聞こえる季節。
今日は個人的なつぶやきでも。




゙我々人間はひとりでいると我が育ち、
みんなでいると愛が育つ生き物だ゙と、
とある経営者が言ってました。


なるほど、ここで言う我と「わたし」は
同じ意味ではないのでしょう。
見れば万葉や論語でも自分を指す意味の
吾と我を使い分けてます。自分自身について
語る時は「我」であって、相手に対し
自分を語る時は「吾」なのです。


じぶん、わたし、己。我に吾・・・
そんなたくさんの「わたし」が存在
していますが、多分に昔の人は「自己」が
正確に定義できないことをわかっていたのかもしれません。


同時に「だからこそ理解したい」と。
己を知るに始まり、知るに終わる。
その自己がたとえ主観であったとしても
磨き突き詰めていけば万人に通じる
客観に至ると、直観していたんじゃないかしらん。


ひとりでいれば確かに我は育つでしょう。
しかし同時に大切なものも育っている気がします。







そんなことから僕は自己中心の生き方を
やってます。権威に寄らず時代に流されず
誰かが使ったありがちな言葉や数字分析を
根拠としないもの、言わば「自分を誤魔化さないもの」。


そんな自己の尺度で問うことを、昔の人は
「独」と呼んでました。独立独歩の精神とは
どれだけ情報を集めても創ることができないものです。





人は人、吾はわれ也。とにかくに吾行く道を吾は行なり。


この西田の言葉は自分勝手に生きる
「我の道」ではないんですね。




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