今日は水戸黄門(水戸黄門漫遊記)で
有名な徳川光圀の小噺(笑)
あのお方、テレビでは助さん格さんたちと
あちこち行ってドンパチやってますが、
実際は徳川綱吉のご意見番に徹し、
江戸城と水戸藩江戸藩邸を往復するのに
人生の大半を費やしたといいます。
隠居した時はすでに64歳、
あんなにあちこち行ける年じゃなかったんですね(゜゜)
初代が好き
ちなみにこの隠居の理由は
「町民の面倒を見る時間を作る」ためでした。
以前、徳川家は領国である常陸
(現在の千葉)を代わりに治めていた
佐竹義宣を関ヶ原の合戦の際、秋田に飛ばしています。
町民たちは善政で治めてた佐竹氏を慕ってたので
新しく治める徳川家を嫌悪してたんですね。
「あんなに良い人を追い出すなんて!」と。
そこで隠居場所を佐竹氏の拠点である
常陸に移し、自分の両親の墓もそこに置いたのです。
(現在の千葉)を代わりに治めていた
佐竹義宣を関ヶ原の合戦の際、秋田に飛ばしています。
町民たちは善政で治めてた佐竹氏を慕ってたので
新しく治める徳川家を嫌悪してたんですね。
「あんなに良い人を追い出すなんて!」と。
そこで隠居場所を佐竹氏の拠点である
常陸に移し、自分の両親の墓もそこに置いたのです。
領国にいなかったけど、住民の事を
考えてないわけではないと伝えたかったのでしょう。
まさに骨を埋める覚悟があると、態度で示したのです。
☞☞☞
さて、そんな光圀は儒学を基軸とする
誠実な人だったようで、特に弱者救済に
力を入れていました。
隠居場所である西山荘の使用人には
老人や身体障害者を採用し、
領内に積極的に出ては高齢者や障害者、
子供たちとの会話していたようです。
住民を騙すような話を聞けば次々と取り締まった。
こういった事実が形を変え、テレビ水戸黄門の
原型となったのでしょうね。
とは言え光圀は厳格な善悪二元論者ではなく
加減を知る知恵のある人でした。
例えば光圀がある漁港に立ち寄った際、
なんだか場所に活気が無いことを感じます。
話しを聞けば、自分が取り締まった政令の為
遊ぶ場所まで無くなった、とのこと。
昔の遊び場とは歓楽施設、 歌舞伎や
見世物小屋を始めとした遊楽場の事です。
もちろんあっち系も。
ちょっと、独身男にはキツイですわな(笑)
そこで光圀は考えた末、歓楽施設を復活させたのです。
新しい歓楽施設は「洗濯場」と名付けました。
表向きは漁から帰った漁師の衣服を洗濯する
女性を置く、という名目にしたのです。
☞☞
タブーです。 しかしそんなガチガチの
理屈で国民を治めるというのは
いかがなものかと思ったんでしょうね。
(光圀自身、相当な道楽者でしたから)
多分に、光圀は大和心を持っていたのかもしれません。
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