春に見た美しい桜は自然の産物であるが、
自らが作り出した美しさを平気で飲み込むのも
自然の産物である。
自然に対する畏怖の念が強くなる昨今、
それは多分に、我々の過ぎた驕りの反映かもしれない。
情緒より合理性を重んじ、
自然ではなく人間を絶対主としている間は
謙虚さというものを会得することはできないだろう。
無論、片側の極端まで達したところで何も偉い事はない。
その両極端に触れ、間を満たすことが本来ではないか。
その極端の「どちらがどちらを内包しているか」を
見極めれば、正しく射貫くのは容易な事。
間違った場所を射貫けば、歪みが起こる。
その歪みを制御しようと射貫けば尚、歪む。
その一歩手前で止めれる知恵が加減であって、
第三の秩序と呼ぶべきものであるのは間違いない。
これができるのは人間だけだろう。
バランスという名の秩序は曖昧な存在である
我々にしか、作れない。
極端な光を善と呼び、極端な影を悪と呼ぶ。
全てを塗りつぶすのが黒であれば、
全てを見えなくさせてしまうのが白だろう。
善悪生死、その両義性を内包するだけで
生が輝くのではない、それはただのモノトーンである。
超克し、明確な自分の色を表現しよう。
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