2016/06/11

「素っ裸の哲学批判」~なぜ化粧をし、衣服をまとうのか~





最近ようやく自意識による「ありのまま病」が
落ち着きを見せているようだが、以前はとにかく喧しかった。



ありのままの自分を「他人に(社会に)」見てもらいたい、
そんな自分を「他人に(社会に)」受け止めてほしい、と。



ただそれは自分と他人との間に動物性を
持ち出すものであるのは言うまでもない、



終息したのも、多分にこのことが分かってきたのだろう。
本来、ありのままの自己を示すためには抑制と構成が必要なのだ。




それによって初めて、猿と人間の違いが現れる。
そうじゃないか。









60年代後半のヒッピーもここを間違えた。



「国など滅びても関係ない。
いっそのこと早く滅びれば良い。
私は自由な人間であり、地球市民なのだ」



そんな駄々っ子の哲学によって、
フリーセックスとドラッグに溺れたのがその証拠だろう。
その思想は都合のいい言葉に過ぎなかったのである。




なるほど、抑圧からの揺り戻しは常に
加減を超え、極端を歓迎するものだが、



それが主流になることはない。
絶対に、ない。




☞☞




なぜ我々は服を着るのか。
なぜ、女性は化粧をするのか。




ここに理屈など必要ないだろう。
むしろ、言ってる方がバカである。



現代の「ありのまま」とは心をすっ裸にすることだ。
化粧をせず、髪を整えないことだ。




世間では汚い、恥ずかしい事であっても
その感情が本当のあなただから
思ったことを全て、吐き出しなさい」と、
愚かなセラピストや教祖たちは言うだろうが、




裸の王様よろしく、そのコミュニティ内では
「裸だ」と言わないだけに過ぎない
それが通用するのは禁断の実を喰う前のアダムとイブだけである。







本音や裸の付き合いというものは
思ったことをそのまま伝える行為ではなく、
襲ってくる激しい情動を一旦抑え、適切に整えること。




必要ない仮面や鎧は取れば良いが、
それは身にまとったものを全て脱ぎ捨てることではない。






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