最近ようやく自意識による「ありのまま病」が
落ち着きを見せているようだが、以前はとにかく喧しかった。
ありのままの自分を「他人に(社会に)」見てもらいたい、
そんな自分を「他人に(社会に)」受け止めてほしい、と。
ただそれは自分と他人との間に動物性を
持ち出すものであるのは言うまでもない、
終息したのも、多分にこのことが分かってきたのだろう。
本来、ありのままの自己を示すためには抑制と構成が必要なのだ。
それによって初めて、猿と人間の違いが現れる。
そうじゃないか。
60年代後半のヒッピーもここを間違えた。
「国など滅びても関係ない。
いっそのこと早く滅びれば良い。
私は自由な人間であり、地球市民なのだ」
そんな駄々っ子の哲学によって、
フリーセックスとドラッグに溺れたのがその証拠だろう。
その思想は都合のいい言葉に過ぎなかったのである。
なるほど、抑圧からの揺り戻しは常に
加減を超え、極端を歓迎するものだが、
それが主流になることはない。
絶対に、ない。
☞☞
なぜ我々は服を着るのか。
なぜ、女性は化粧をするのか。
ここに理屈など必要ないだろう。
むしろ、言ってる方がバカである。
現代の「ありのまま」とは心をすっ裸にすることだ。
化粧をせず、髪を整えないことだ。
「世間では汚い、恥ずかしい事であっても
その感情が本当のあなただから
思ったことを全て、吐き出しなさい」と、
愚かなセラピストや教祖たちは言うだろうが、
裸の王様よろしく、そのコミュニティ内では
「裸だ」と言わないだけに過ぎない。
それが通用するのは禁断の実を喰う前のアダムとイブだけである。
☞
本音や裸の付き合いというものは
思ったことをそのまま伝える行為ではなく、
襲ってくる激しい情動を一旦抑え、適切に整えること。
必要ない仮面や鎧は取れば良いが、
それは身にまとったものを全て脱ぎ捨てることではない。
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