2012/08/14

クロポトキンとパノプティコン



この間、友人と話していた際、
アメリカでは市民監視プログラムが暴露され、
最近アップルのIOSには監視用バックドアがある、
という流れからクロポトキンとパノプティコンの話題となった。


なるほど、まさに現代はパノプティコン。
故にクロポトキン思想が必要であるのは間違いない。



今日はそんな話。







クロポトキン思想とは端的に書くと相互扶助、
政府支配のないコミュニティー社会の形成である。
反的な、つまり意図的’|(人為的)な無政府は
自然崩壊ではない為、必ず誰かの思惑があるのだ。


つまり猿山のボスが変わるだけの事であり
やがてそのボスが新しい支配体系を形成す。
人工的な秩序とは「設計者」がいる証拠である。
その他律的なものを一切排除しなくてはならないのだ。


相互扶助が個人の思想と直結しなければ
永遠にヒエラルキーとアナーキーの振り子状態となる。
だからこそホッブス「リヴァイアサン」だが、
ロックから、その絶対権力を批判されたわけだ。


「人はキツネやイタチの被害を避けるため、
ライオンに喰われるのを選ぶほど愚かなのか」と。
恣意的なものは全て偽物。当然である。



そんなわけで僕は「相互扶助論」が
本来の秩序ではないか、と思ってるのだ。


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「クロポトキン思想は代案のあるアナーキズムだ」
それが友人の意見だった。それが空論ではないのは
歴史的経験則だからだろう。


しかし、僕はそれに容易に賛同できなかった。
なぜなら今の国家構造、「根幹」では無理なのだ。


「無政府」とは、あらゆる機関を民営化
することである。それならば小泉は
間違ってないとなるが、あれはぶっとんだアナーキズムである。



カントよろしく理念によって守られていないのだ。
まさに平和学(予備6条・確定3条)である。




雪が消えれば

ソニーの創業者である井深大氏は
経営理念を大事に語った人の一人です。



氏は教育の重要性を語り、
企業理念にもそれが如実に表れています。

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一、不当なる儲け主義を廃し、あくまで内容の充実、
実質的な活動に重点を置き、いたずらに規模の大を追わず。


一、経営規模としては、むしろ小なるを望み、
大経営企業の大経営なるがために進み得ざる分野に、
技術の進路と経営活動を期する。


一、極力製品の選択に努め、技術上の困難はむしろ
これを歓迎、量の多少に関せず最も社会的に利用度の
高い高級技術製品を対象とす。


また、単に電気、機械等の形式的分類は避け、
その両者を統合せるがごとき、他社の追随を絶対許さざる境地に独自なる製品化を行う。





これら経営方針の一部を見れば、
創業者の言葉は時代を超えても錆びないことが分かります。



古臭い信念と言うのは大いに結構、
ただ、それを否定される筋合はない。




僕がやっているフランチャイズはあくまでも手段、
目的はこの国の失われた精神性を取り戻す事です。





最後に井深氏の著書の一節を。



国会議論で、おもしろい問答がありおましたな、


「総理、雪が消えたら何になると思いますか?」

「水になる」


「いや、雪が消えたら春になるのです」


知識の詰め込み教育だけでは、
春になるという答えが出ません。


弱いは強い、強いは弱い




unreveが構築するFCは既存の縦割りFCと比べ、
限りなくフラットに近い連携を理想としています。




「連携、連帯」などと、口では簡単に言えますが、
これほど難しいものはありません。



ただ、これからは人と人との繋がり方次第で
ビジネスは大きく変わってくるのは間違いありません。



今日はそんなunreveの組織論、について。



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経営者だけに限らず、我々人間が
この「連携」を求めている時代というのはどんな時でしょう。



それは困っている時、
もしくは現状を変えたいという時ではないでしょうか。



そして現在それを強く求めているのはどこか、といえば、
企業の9割以上を占める中小企業です。




自社が潤っていれば連携を真剣に考えることはありません。
連携の必要性は自分の弱さを自覚したときにしか分かりませんから。



逆を言えば、その位置だからこそ
わかるものもあるのではないでしょうか。



☞☞




弱者ってそもそも何でしょう、
僕は横断的に本部を構築してるせいか、疑問に思います。



FCの本部には、「弱い加盟店を助ける、支える」
という面は確かにあるけれど、


加盟店が本部を支えることもあるのです。



そんな力関係の逆転や矛盾を説明するのは難しく、
とくに損得一義である経営の世界では理解されにくいもの。



「加盟店が指示通り動かない」
「いや、本部の指導がおかしい」



不毛な主導権争い、そんなFCはゴロゴロしています
契約書と言うものは連携の証にはならない。



そんな状況において、その力関係の正しさを
証明する事に執着し、 肝心の目的や理念が
達成できないのであれば、本末転倒です。



度々書きますが、連携は簡単ではありません。
時には叱咤激励は必要ですし、耳を傾ける受容や傾聴も大事です。



そんな正解のないものを、あーでもない、
こーでもない、とやる事が出来るかどうか。




そのプロセスが重要なキーワードです^^


☞ ☞


強さを前面に打ち出し、人を動かすのは
仕事に対する自信の現れであって素晴らしいこと。



ただ、「自分だけでは限界がある」
そんな弱さを知る人もまた、強いと思います。



そして、矛盾する言葉なのですが、
弱さを知る人が「依存なく」集まれば、強い力になると思っています。



2012/08/13

7%のシステム言語を超えて



言葉自体が相手に与える影響はどれくらいかご存じだろうか、
実はたったの7%程度だと言われている。



「メラビアンの法則」で有名なアルバート・メラビアンは、
伝達に関する影響度を調べた結果、


言語7%、口調・早さなどの声のテンポが38%、
そして、身ぶり手ぶり(振る舞い)が55%という結果を出した。



つまり、相手に伝えるのはボディ・アクションが一番大事であり、
伝える(伝わる)という相互作用には「振る舞い」が大事なのだ。



世界最高のプレゼンテーターと言われたスティーブ・ジョブスも
これら「振る舞い」を上手に使っている。



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つまり伝道者は「最高の役者」であればあるほど、
その影響力は強い、というものだ。


「振る舞い」はビジネスだけに限らない、
ビジュアル情報によって我々は影響を受けやすい。



そして(逆説的だが)それをもう一度
「言語に練り上げる」、それが私がやっている事だ。



理由は一つ「感性に響かせる為」だ。


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感性のシステム構築とはなんだろう。
そもそもシステムとは何を指すのだろう。


あらゆる組織はシステムによって動いている、
そしてシステムは「静態・動態」の2つに分けられている。


以前記事に書いたように、静態とは「閉鎖システム」、
機械のように内部完結で外部との入出力がない。


反面動態とは「開放システム」であり、
我々人間は常に開かれ、外部と相互作用を繰り返す。



言わばシステムとは「部分間の結合」であり、
その相互作用を一段上から観た時、それを「システム」と呼ぶのだろう。



つまり結合や作用を行っている「部分」の視点からでは
そのシステム全体は理解できない、と言う事だ。



ちなみにシステムには「対義語がない」。
デジタルはシステムではない、対義であるアナログにもシステムはある。


つまりシステムは「静と動」のように対こそ成すが、
我々の世界のあらゆるものに存在する「全体枠」なのだ。


枠(システム)を理解する為に科学や化学、
哲学や心理学や脳科学や量子力学が生まれた。



しかしそれを知っても子供の無邪気さは説明できない。
私を科学で笑わせる事はできない。



理性は感性のほんの僅かな部分を説明しているだけ、
だからこそ感性に興味を持った。


前回書いたが私は「システム」という言葉が嫌いだ、
それより「仕組み」の方が体温を感じる。


「感性システム」というよりも
「感性が織りなす仕組み」を作りたいと思っている。




キアスムと顛倒の真理

非局所性とは、この宇宙における現象が、
離れた場所にあっても相互に絡み合い、影響し合っているという性質のこと。


非局所的な応答が起きるということは、
喩えて言うならば、ゴムひもの1点に力を加えると
他の全ての点に変形が起きる、というようなものである


我々の本質は突き詰めると非局在的な存在であり、
本来は物理次元の制限を受けない存在なのではないか?



今回はそんな小話


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キアスムという概念がある。
提唱者はモーリス・メルロ・ポンティ。



西田のように主体と客体を超えようとした現象学者であり、
生涯、関係性(関係化)について考えた哲学者である。



日本では中沢新一氏がキアスムを「交差」と定義し、
以下のように説明している。


社会というものはどこでも、具体的な人間の心のつながりでできている。
社会のなかの個人は、程度の違いはあっても、けっして孤立して存在していない。


さまざまな回路をとおして、人間同士の心のつながりを維持しようという方向に、
社会は働きをおこなおうとする。つまり、人間同士を分解するのではなく、


結びつける作用が、社会には内在しているのである。
このような社会の本質を交差(キアスム)構造としてとらえることができる



それは多様な人格の交差した状態である。
私の心とあなたの心には、何らかのつながりが発生している状態があるというのだ。


これすなわち「縁」だろう。



異なる対象でも根源的なところでは共通、交差する点がある、と。



この交差点が無数の人との「関係性=縁」によって
複雑に絡み合っているのだ。



この縁とは昔からある概念、
縁結び、縁切り、縁日は新道である神社の行事。




縁は糸で「結」ばれるという、
この「結」という字は糸偏に吉と書くが、



良縁を頂いているからこそ結ばれ、
結ばれた縁が「結果」へ繋がるのだ。



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キアスムの交換はモノやサービスだけでなく、
提供者のつながり(縁)も一緒に手渡されると言う。



その要素が組み込まれた交換だけが、
贈与という性質を持っているのだ。



例えば「形見」が贈与的特性を持っているのは、まさにその媒体によって心が交差するからだろう。


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経済にやがて贈与的な原理が甦るだろう、と多くの専門家が言っている。
つまりそれは人間関係性の積極的な「回復」への希求である。



それについて私は多少(悪縁切り難しのように)懐疑的だが、



101匹目のサルが芋を洗いだしたように、キアスムは交差だけでなく同調するかもしれない。



ハイデガーが「ツハンデネス」と呼ぶ、
根っこの部分である見えない本質は
我々の目に見える関係性(フォルハンデネス)の認識によってあぶりだされる。



まるでイーゼンハイムの祭壇画のように
神聖さを神聖らしく表現するのではなく、



人間存在の絶望的な醜悪さが極限で示されることで
本質的な「神聖さ」が発光するという、「顛倒の真理」。



対立している対象が、飽和となり、豊穣よってに崩れていくとき、
同時にその反対物が浮かび上がってくるのだ。



やがて我々は無の本質をあぶりだす為、回帰し、経験するのだろう。

2012/08/08

雑草

昭和天皇は付き人が「雑草」というと、
「世の中に雑草というものはございません」
と言ったそうな。



確かに、そっちの方が正しい。
しかし我々は意味のある・なしに対し、
「雑」という言葉を無意識的に使ってしまう。



雑用、雑談、雑学、
これらはちゃんと必要性があるんですが、



意識はこれを「意味なし」と
捉える分別癖があるんですな。



今日は、そんな「揺らぎ・遊び」と
自然派生について。








我々は一見無駄だと思えるようなことを
やってしまう生き物なんですが、


これは生きている証拠であり、
全てを効率的かつ合理的にやってると
文字通り息が詰まっちゃいます。



僕はそんな規則正しい生き方を見ると
どうもメカニックなものを想定してしまうのです。



例えばプログラム構築の際、バグがでれば
当然、そのシステムは動くことはありません。



バグを訂正すればシステムは
「正常」に作動します。



ここでいう「正常」とは、
「変わらず、何も問題なく」、ということですよね。



では、人を管理するシステムにおいて、
「バグ」というものはあるんでしょうか、
逆に、「正常」というものはあるのでしょうか。



もちろんそんなものはない、
当たり前の話なわけです。



「正常」とは、機械の操作だけの話であって、
人に当てはめても、ロクな事にならない。



例えば、従業員が風邪を引いたとします。
その人は当然、休むわけです。



しかし、その人が重要なポストの場合、
上司なり職場のチームなりが文句を言ってくる。



「こんな時に風邪なんか引いて」と。
まるで本人にすべて原因がある、言わんばかりに。



しかし、風邪は本人の意図ではない。
逆に意識して風邪引けるわけないでしょうが。



この「勝手にそうなったもの」、
これを拒絶するのが、現代の暗黙の考えなわけです。



そこの店長さん、
そう思ってるでしょ?(笑)



☞ ☞



体調管理やら言いますけどね、
どれだけやっても体調悪い時はあるんです。


これが本人だけならまだしも、
母親だったら子供の面倒だってみている。



子供は全然、自然体ですから、
それこそすぐ、体調が悪くなる。



これはどうにもできないもの。
母親が休みの日だけ体調が悪くなる子供なんて、いるわけがない。




「雑」なものは「自然派生」なんです。
人工の建物にもハエや入ってくるし
コンクリートから雑草だって生えてるでしょう。




それがない世界は居心地良いですか?



つまりそう言う事です。