2017/04/14

教義を強要した時点で教育ではない




今日はあくまでも個人的な記事なんで
教育関連の方で気を悪くする方がいたら
ゴメンなさい(゜゜)イケンハラインデオネガイシマス




さて、僕の思う最大の教育方法は昔から一貫して
「自己中心」。それは今でも全く変わっておらず
むしろ確信めいたものになってます。


教える側ができるのはあくまでもキッカケ、
内部から派生させることが一番重要だ、と。



ただ、もちろんそれは基礎(前提)の
習得ありきであってそこに対しては
「動機」なんて関係ありません。例えば
平仮名とか九九とかそうでしょ。
「文字を覚える動機が起こらない」
とか言う子がいても知ったこっちゃないですわな(笑)


話はそれちゃいますが、FCのマニュアルも
基礎の技術や問いの姿勢(脱正解依存)は
必須であって、この部分の見極めをunreveは「守」と呼んでます。


いわゆる応用するための土台、型ですね。
それがしっかりしてるから次(応用)に行ける、と。



ゴルフを我流でやってもうまくならない。


見れば多くのFC本部さんはこの「守」だけを
徹底させようとしていて応用をやれば
「ルール違反だ」、「勝手なことするな」と
押さえつけてしまっているようですね。


まさに理性派生の罠、人間って不安要素を
無くそうと「つい」コントロールしたくなるんです。


その結果ブラッシュアップと言う名の元
機械の設計書みたいな分厚い資料ができちゃう。
ただそれは「詳しく」なったわけじゃなく
「細かく」なっただけでしょう



✍✍✍


何が言いたいかって言うと「理想の教育」
とか「理想の人間像」ってもんを掲げる人が
教育分野に関わると、ちょっと洗脳に近い
ものとなってしまうってこと。過激な
言い方ですけど「次世代のリーダー育成」とか
「求められる経営者像」とか「本当の自分を~」
みたいなスローガンを教えている人って
大体が北朝鮮みたいな環境を作っているだけです。


だから自分の理論に合致しない異分子を
排除してるじゃないですか。あれは自分の考えを
疑ってない傲慢さの証拠、
それは「教育」とは言わず「教義」と言います。


そして、その裏には余白を許さない強固な理性があるのです。


✍✍


本来の教育は時間がかかるし非効率です。
なぜならこういったものは因果関係が明確に出ないから。


例えばそのときは「これだ!」って思ったことが
後になって「何か変だな」と感じるじゃないですか。
理由は簡単で「教育には結果がない」、常に後追いと言うこと。


変な言い方になっちゃうけど
結果を無視しないと結果は出ないんですね。



「後記」


てなわけで、教育熱心な人って僕からすると
ちょっと危うい感じがしてしまうんだなあ(゜゜)


そんな人が間違ったスキルや結果論を
覚えてしまうと、その熱意が変な方向へ導いちゃう。



最近話題の教育勅語なんて、まさにそうでしょ。
いつの間にか聞く耳ってやつを失くしてしまうんですな。




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