2017/04/11

ミネルバの梟



誰が言ったのではなく、何を言ったのか。
それさえ見極めれば、人の地位や
影響力に囚われた「言葉」を信じることはありませんね。


なぜなら真実性がある言葉や表現は
どんどん名無しになっていくもの。
その人ではなく考えの方が主体になる。


それはまるで時代の闇を切り裂く
ミネルバのフクロウのよう。
どこから紡ぎ出させたのか、誰も知ることはできない。



パタパタ、パタパタ。
今日はそんなところから。





誰に見て欲しいとさえ思わない表現、
言う側が誰だろうと関係なくなった言葉。


歴史上の天才たちはもれなくそこを
目指したに違いない。故に彼らが見ているもの、
指さすものは「わたし」のもっと先にある。


我々はそんな彼らの創った作品を媒体として
「それ自体」を朧げに感じることができる。
それに触れれば強烈に心が動かされ、言葉を
失ってしまうでしょうな。


息を飲むというのは絶句ってこと。
適切な言葉が存在しないことを知ってしまうわけだ。


その飲んだ息にの中に無言の息遣いを感じる、と。
ここに今のような空想的なスピリチュアルや
ドクサとは違った形而上の世界が隠されてるんじゃないかしらん。



☞☞



それを表現するまでの過程は人によって様々。
出家する人もいれば、旅に出る人もいるでしょう。



方法だって人によって違います。
経営者になる人、教師や医者になる人。
絵描きになる人、物書きになる人。
「なぜそれを選んだのか?」と聞かれても
本人はその理由を知り得ようはずはない。


なぜなら「問いの方が」我々を用いているのだから。
多分に彼らは「なんとなく」と答えるだろう。
成り行きだと答えるだろう。



多分に、もしかするとそれは原記憶の中に
あるのかもしれませんな。


志向性とは、そこを目指す精神のリレーのようです。




この記事は2016年4月の過去記事を再アップしたものです。


0 件のコメント:

コメントを投稿