誰が言ったのではなく、何を言ったのか。
それさえ見極めれば、人の地位や
影響力に囚われた「言葉」を信じることはありませんね。
なぜなら真実性がある言葉や表現は
どんどん名無しになっていくもの。
その人ではなく考えの方が主体になる。
それはまるで時代の闇を切り裂く
ミネルバのフクロウのよう。
どこから紡ぎ出させたのか、誰も知ることはできない。
パタパタ、パタパタ。
今日はそんなところから。
誰に見て欲しいとさえ思わない表現、
言う側が誰だろうと関係なくなった言葉。
歴史上の天才たちはもれなくそこを
目指したに違いない。故に彼らが見ているもの、
指さすものは「わたし」のもっと先にある。
我々はそんな彼らの創った作品を媒体として
「それ自体」を朧げに感じることができる。
それに触れれば強烈に心が動かされ、言葉を
失ってしまうでしょうな。
息を飲むというのは絶句ってこと。
適切な言葉が存在しないことを知ってしまうわけだ。
その飲んだ息にの中に無言の息遣いを感じる、と。
ここに今のような空想的なスピリチュアルや
ドクサとは違った形而上の世界が隠されてるんじゃないかしらん。
☞☞
それを表現するまでの過程は人によって様々。
出家する人もいれば、旅に出る人もいるでしょう。
方法だって人によって違います。
経営者になる人、教師や医者になる人。
絵描きになる人、物書きになる人。
「なぜそれを選んだのか?」と聞かれても
本人はその理由を知り得ようはずはない。
なぜなら「問いの方が」我々を用いているのだから。
多分に彼らは「なんとなく」と答えるだろう。
成り行きだと答えるだろう。
多分に、もしかするとそれは原記憶の中に
あるのかもしれませんな。
志向性とは、そこを目指す精神のリレーのようです。
この記事は2016年4月の過去記事を再アップしたものです。
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