一見、静止しているようにみえる独楽は、
その安定状態を保つため、自らを激しく変化させている。
非平衡の現実に安定などない以上、
連続した自己組織化によって会得するしかない。
カフカの「独楽」は、これを表現しているのだろう。
そんな考え方、派生軸は自分だけの経験による、
自分だけの生き方の指針である以上、
たとえそれが周りから「何々主義」だといわれても
自分がそれで幸福になるのであれば、一向に構わないではないか。
表層的に浮かび上がった行動とは
あくまでもやり方、技術的なものとしての問題である以上、
私はこの技術で幸福を目指し、掴む。
単純にそれだけのことであって、
生き方に筋が通るとは、そんなものだろう。
まあ、何事も押し付けないことですね。
「私はマルクス主義ではない」
こう叫んだのが当のマルクス本人であることに
僕は意外性を感じない。
いくら厳密に思想を体系化したとしても、
ある種の「イメージ」は一人歩きしてしまうもの、
7000冊に及ぶ一切経を書きあげた釈迦でさえ
本体から離れて勝手に歪曲されている。
多分に、それは避けれない運命だろう。
伝言ゲームよろしく、本来の意味の方「が」疎外されてしまうのだ。
それに加え、都合よい解釈で祭り上げてしまう
大衆心理もまた同様に、避けられないだろう。
そこに個人の経験からくる確信はない。
あるのは勝手に解釈した「不特定多数の考え」と、
各自めいめいの「無責任さ」だけである。
さらにそれを信仰すれば、権威によって
引き上げられてもらうため、積極的な主体性は消え、
それ以外の権威を引き下げようとする
恣意的な意図が働きだす。
そんな無責任な志向性を小林は嫌い抜いていた。
そりゃあもう、容赦しなかった。
実に無責任ですよね
今日のインテリってのは
「韓国のある青年を救え!」
君、責任とんの?
とれやしないよ。
責任なんかとらないことばっかり、
人は言うんですよ。わーわーわーわー
よく見てごらんなさい。
本当に責任をとってるか?
自分の言うことに責任ないんです。
信ずるっていうのは責任をとることです。
僕は間違って信ずるかもしれませんよ。
万人の事なんて、考えないんだからね僕は。
僕流に考えてるんですから、
もちろん、僕は間違えます。
でも責任はとります。
それが、信ずることなんです。
信ずるという力を失うと、
人間は責任をとらなくなるんです。
そうすると、人間は、集団的になるんです。
会(解)が欲しくなるんです。
自分でペンを操ることが信じられなくなるから、
ペンクラブが欲しくなるんです。
ペンクラブは、自分流に信ずることはできないです。
クラブ流に信ずるんです。 んなこたぁないです。
クラブ流に信ずるから、
イデオロギーってものがあるんじゃないか
自分流に信じれないから、
イデオロギーってものが幅を利かせるんです。
だからイデオロギーには匿名ですよ。常に。
責任をとりませんよ。
そこに恐ろしい力があるじゃないですか。
それが大衆、集団の力です。
責任を持たない力ってのは、
そりゃあまあ、恐ろしいですねぇ。
集団っていうものは責任を取りませんからね。
どこにでも押しかけますよ。
「自分たちが正しい~」、ってね。
こういうときの人間なんてものは
恐ろしいことになる。
でも、その恐ろしいものは集団的になると現れる
僕らのもっている精神ですよ。悪魔ですよ。
「なぜ徒党を組むのか」より
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戦後だろうが平成だろうが、
集団の力ってやつは、変わりゃしない。
「君たち、責任とんの?」
どこかでそんな声が聞こえてきそうだ。