2010/11/23

4方よし

どもグッさんです(^^)♪




さて今日は近江商人の
「三方よし」について。
これって海外でも注目されているんですよ(^^)
歴史は時に教訓として、僕らに教えてくれますね。



最近のサブプライムショックは、
金融のマネーゲームがそもそもの始まり。




アダムスミスは国家が経済には介入せず
市場原理に任せた方がいいと著書の国富論で書いてますが、



それはパイの奪い合いである現在の
競争社会では難しいですね。
市場原理に任せるというのは言わば「性善説」が
ないとダメなんじゃないかな。


そんな事からこの「三方よし」が
共有されていってるのかもしれませんね。
しかしこれだけ経済が複雑(煩雑?)化し、
インターネットでグローバル化した
最先端科学を駆使しているとも言える先進国が
300年以上前の原始的な商売スタイルに目を向けるなんて
実に興味深いです。



まあ強者生存が仮にまかり通るならば
動物界ではライオンなどの肉食獣しか残りません。
そして、かりに残れたとしても餌自体がなくなるので
最終的には餓死してしまうのは明白ですからね。






さてさて今回テーマでは「4方良し」と
書いてるんですが、僕が事業として
やっているFC事業、考えたら「4方」なんです。


3方よしが「我よし、客よし、世間よし」に対し、
FCはさらに先があって、本部から見れば
その「お客さん」には加盟店と消費者がいるわけです。



そう考えると「我よし、本部よし、加盟店よし、世間よし」
となります。



その全てにおいて「良し」と言えるかどうか?
それがunreveが提唱する新しいFCです。





確かに欧米のスキルは素晴らしい、
インテリジェンスだし、システマティックだしロジカルです。



あとマーベラスだしバットマンだしアルマゲドンです。



ただ、これらは機械的な大量生産に近い。
フランチャイズは大量のコピーを生み出すものではないですよね。





和洋折衷のバランスの取れた本部を展開されたい方は
ぜひご相談下さい^^


2010/11/09

世界共和国とナウシカとグッさん



夜においては、光も音もなく対象も空間もない。
しかし、これは「無」ではなく、そこには、闇が「在る」


~エマニュエル・レヴィナス~




ども、unreveのグッさんです。
いつものように自己中心的に、



そして「風の谷のナウシカを入れつつ」
書いてみようと思います(どんな企みだ・・・)




今回は時間と、ちょっとばかりの
寛大さがある方だけお願いします(笑)








社会秩序という構造はどのようにして成立するのか?
その前提として人間は「暴力」と「優しさ」が
同居しているという、本質構造を知る必要があるのではないでしょうか。




社会の根底にある、暴力性。
フロイトはイド、ニーチェは権力への意思と呼びます。



当然その本質は無秩序で無方向な欲望なので、
集まれば、混沌と無秩序の闘争社会になるでしょう。




そこで(個人的な宗教の起源定義ですが)、
統率という管理方法が「何者かによって」定義する必要が出てきます。



問題は、それを誰がするか。
また、どうやって暴力を制御するか。




多分に、西洋はその多数がもつ暴力性を
一人の人間に集中させ、犠牲にしたのでしょう。



このたった一人の人間を犠牲にすることによって
人間のもう一つの側面である善良性を引き出した。



つまり「罪の意識」によって負い目を感じさせ、
それによって社会に秩序が生まれ、共同体が成立した、と。




また、その犠牲者は神の象徴として潜在的に居座る。
(どことは書きませんが)そんな儀式的なもので
秩序を形成しているのでしょう。




逆を言えば、その秩序は
「すでに死んでいる聖人によって」支配されている。



これが人間は罪人だと言う宗教起源かもしれません。
あくまでも、個人的な意見ですが。




人間の切っても切れない生まれ持った「暴力性」。
それを管理する為には「反対の力」が必要だった。



僕はそんなの、嫌だな~









ルネ・ジラールの欲望論では、
僕らは他人に優越しようとする社会的欲望があり、



結果として相互的な競争が生まれ、
そこからは誰か一人を排除することによってしか
安定した秩序が形成されないと言ってます。



「秩序」というものは安定性が乏しく、
人の根底に潜む暴力性は完全に消えないというのでしょう。




それは今でも心の奥の潜在性として残っている。
特に今はそのタカが外れやすくも感じます。




よって、この暴力性の新しい取り扱い方が、
今後必要ではないでしょうか。




欲望は破壊や所有を伴った活動であって、
自分の「欠けている部分を補うこと」だと言います。



その欠けている部分を得たいがために
人は心の奥底にある「暴力性」が出てしまうので、



それを抑圧する為に「社会制度」が
出来あがったと考えられなくもないです。




制度によって人を縛り不自由にさせ、
共通の共同体に取り入れてしまう制度、




そんな監視社会においては
自分は特別な人間とは考えらず、
その共同体の一部分だと思ってしまいます。




思考や行動など、あらゆるものを
全体としてでしか考えなくなる。



それは秩序こそ生まれるけれど
動物園にいるのと変わりません。






じゃあ・・・・・どうしましょ?と考えたグッさん。




多分、今一番必要なのは欲望を制御させる
外部の法ではなく、



自分で自分を律する事ができる
「自分の法律(哲学)」ではないでしょうか?




欲望は否定しません、しかし「二の次」。




そもそも哲学論理は必ず暴力の世界からのスタート。
そう考えると、哲学の生みの親は暴力であって、
暴力なしには哲学や理性は存在しなかったのかもしれません。



国家の法律に追放、監禁、矯正、処罰等があるように、
哲学にも追放や矯正があります。



つまり法律と哲学は近い。



自分の中に哲学を持っている人は言わば
「自分自身の法律」を持っていると言う事。



つまり自分の暴力性を自分で抑える為の「法」が
哲学なのかもしれませんね。



・・・・・・・・




僕ら(人間は)生来、語るか暴力かという
二つの選択可能性を持っています。
(逃げると言う選択肢もありますが)



そして暴力は最も実現しやすく、また最も簡単な行為です。




現在の資本主義の象徴である「お金」は、
欲望を制限するのではなく、(欲望を)交換し
円滑に流動させるため、作られました。




つまり欲望が良い意味で「すり替えられた」わけです。
絶えず自らを生み出す「生産力」という肯定的なものとして。



しかしそれはあくまでも「本質的な暴力を抑制する為」、
この制御を相互で主体的に認識することが大事なのかな、と




ナウシカのラストあたりで思ったグッさんでした( ̄▽+ ̄*)ラ ラララ ランランラン



ではでは、また次回。

Bless youアップ


2010/10/06

絶対的価値と相対的価値

ども、unreveのグッさん(遺伝子組み換えではない)です。



さて、今回のテーマは「絶対的価値と相対的価値」について。




絶対的価値とは
「あなたじゃないと得る事ができない価値」。



特定の歌声や絵画、思想など
いわゆる「創造的価値」です。



ミケランジェロの作品やバッハの作った
楽譜と競争して勝つことなんて誰も出来ませんし、
逆に負けると言う概念もありませんよね。



「対がない」。それが絶対的な価値です。




それに対して相対価値は
「あなたじゃないといけない必要」がありません
競争して、比較して得られる価値、それが相対価値です。



それはコピー(模倣)や同一作業によって
得られる「数値」として優勢を争います。
受験や選挙、競争や価格などですよね。



同じものを売る小売店の場合はオリジナルを目指し
PB(プライベートブランド)という絶対的な価値に向かいますが、
その大半は相対価値、似たようなものしかありません。



そうなれば当然価格競争やチェーン店舗数で
その価値を生みださなくてはいけない。



「早い、安い」は結局「相対的価値」を
向上させる(と思っている)指針なわけです(・ω・)b



□■□■



自分の価値に気付かない人は大勢いますが、
誰にでも絶対的な価値はあると思っています。



なぜ自分に価値がないと思っているのか?
理由は簡単、今までの人生でやってきたのが
たまたま「相対的価値」だけだったから。



しゃーないですもん、ものごころついた時は
すぐに「お受験」ですし、



それが終われば就職競争ですし、
就職したら「誰にでも出来る仕事」を与えられるわけですから。



もちろん全てではないんですが、
そういった道から外れるとなんだか
「人生を踏み外している」と錯覚してしまう。



親は心配するし世間の目も気になるし
彼女からは「夢ばっかり追ってないでちゃんと現実を考えて」と言われるわけで(笑)




定年後に大事にとっておいても
その時はすでに忘れてるか枯れてしまう。
「才能とは継続できる事」なんで結果、萎んでしまうんです。




「俺には才能がなかったんだよ・・・」と。
いえいえ、才能は誰にでもありますよ。




「あの時こうしてれば良かった」とか
「あれがなければこんな結果じゃなかった」
といのは結局のとこ、



もっと上手くやれば別の良い結果が
あったのかもしれないという、期待に満ちた「if」ですが、



哲学者キルケゴールは
「船の中にある希望の積み荷を捨てれば、船は初めて芸術的航海をはじめる」と言ってます。




つまり、希望とは一見無くしてはいけない言葉のようですが
求めないことでこそ与えられる「何か」があるのではないかtって
言ってるんでしょうな。




確かに、希望は欲望と同じ、夢を追う事や
願望は下手すると「渇望」となりがちです。




ただ、前回の断捨離の話ではないんですが、
簡単に手放せないからこそ、今まで持っていたわけでしょ?



グッさんは捨て方には順序があると思っています。
(本来「ある」と言い切る状態から話をするのはルール違反ですが)



無理に捨てなくても、必要ないものは
自然にゴミ箱に行くんじゃないかしらん。



つまり「全てが方法論(思考)ありき」では
いつまでたっても苦労すると思ったグッさんは、
「まずはベース(幹)からでしょ~」と思ったわけです。



希望や願望や執着はあってもいいし、無くてもいい。



あって苦しいなら捨てれはいいし
それが嫌なら持ってていい。



その選択の結果が「絶対的な価値」ではないでしょうか?



自分で選ぶことで「あなたじゃないと得られない人生」が、
価値であり、それが後悔のない人生を作る。




ジョンロックのリベラリズムや
相互依存論に近いんですが



グッさん的には仏教哲理「不二論」の方が
馴染みます( ̄∇ ̄+)オマエ ホントニムシュウキョウ?




これ自体も無条件に正しいとは思えないへそ曲がりなグッさんですが、
お互いに内包している「共通項」がそうさせるんです。



つまり僕のせいじゃないです(爆)





「究極的真理は究極的真理がないことである」という空と、
「究極的真理は実はある」という空の空(より高度な矛盾、限界矛盾)がありますが、




「対立しているもの同士でもある点では一致している」。
目指すもの、必要なものは実はそれなんじゃないかと思うんです。




「グッさん暗い・・・・・暗すぎるよ」と言う意見は却下します(ノ´▽`)ノ ⌒(呪)



ではでは今日はこの辺で、

Bless youアップ


2010/09/14

歎異抄を開いても・・・



ども、unreveのグッさんです。




以前「仏教は日本を救う」とか書いてましたら、
最近仏教、というか仏像がブームになっているのだとか。



仏像ブーム 若者をひきつける魅力とは- MSN産経ニュース



また、仏教本でもある「歎異抄をひらく」
などは20万部近く売れているとの事、
成功哲学の次は宗教で幸せを得たいのでしょうか?



しかしマーフィーを1000回読んでも
成功できない人がいるように、
歎異抄を読んでも幸せにはなれません。



てなわけで、今日は親鸞の弟子である
唯円が書いたとされた歎異抄について。



個人的な意見ですが盲信なく、です(・ω・)b



○○○



「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(『歎異抄』第三章)


歎異抄でも特に有名で、よく知られる言葉ですね。
以前はこの言葉を「悪党の方が天国に行ける」と勘違いし、
極悪非道を行う「造悪無碍」と呼ばれる人もいたそうです。



善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる、と。



やれやれ。とんでもない話ですが
影響力のある人の言葉は正確に理解しないと
時として大衆を間違った道に進ませてしまうのは
何時の時代もかわりませんね。



そこで文章全体を読み解いていきます(・ω・)b



善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。

しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、



いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、

本願他力の意趣にそむけり。



そのゆえは、自力作善のひとは、

ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、



弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、

他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。



煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、

生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、

願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、



他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。

よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。



弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、

他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり



ここで本文で出てくる
「自力作善のひとは、ひとえに
他力をたのむこころかけたるあいだ・・・」の部分。



細かい説明、解説は人によって様々ですが、
概念として歎異抄では善人とは自力作善の人、
つまり他人の力を頼らないで生きていて
自分の本質を知らず、自分が善人だと勘違いしてる人です。



阿弥陀仏の救いに身を任せずに、
自分の力で善を積んで悟ろうと、
「自力作善する」意味での善人ってこと。


また、悪人は煩悩具足(心が落ち着かず、
常に悩みの原因となる欲望がある人)の事であって
自分の力では輪廻を離れることができない、
阿弥陀仏の本願力をたのむことしかないと「自覚した人」のことです。




つまり道徳的な意味は関係がなく、
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」とう言葉の意味は、
阿弥陀仏の本願を頼まずに自分で善業を行っていく人でも往生できる。
ましてや阿弥陀仏の本願を頼っている人が往生できることは当然だ。といった意味なんですね(たぶん)



阿弥陀は全人類すべての人間を
「金輪際助かる縁なき者」と言っていますが
人間が罪人であり、悪人なんだと本人が自覚した時、
そんな自分をも救ってくれる阿弥陀仏の本願を知り「このような罪人である人間でも往生できるんだ!」と、信仰するのだと。


最初から人間は「善い者」と
思ってるからそれぞれが「悪の対象」を作るわけで、
そうじゃなくて人が全員悪いんだけど
「こうやって現世に生まれたんだから良い事をして人生を送ろうね~」ってことです。



「おいおい、自己評価が低すぎるだろ」と思うでしょうが、
その考えの愚かさを、仏教では人間の本質として見抜いたのでしょう。



まあそんな事を書いてしまうと身も蓋も
コンサルタントの仕事もアメブロの自動ペタツールも無くなってしまうのですが



「俺ってスゲー良い事やってる!」という
思いの裏側に潜む「心の狭さ」が自覚ができない人には
ならないように心がけたいですね(^^♪




ではでは、また次回。


Bless youアップ


暖簾分け


日本の退職金の始まりは江戸時代。
現在の三越(旧三井グループ)が始めたという「暖簾分け」が起源だと言われます。



店で働いている奉公人が独立して店を持つ際、
その手助けとして、現物支給でのれんを渡してたのが発祥なんですね。



それが、長年の勤労へ対する報奨として
現物から退職金というお金になりました。




暖簾とはお店の屋号を記すことから
信頼を意味するんですね。





今回はその「暖簾」について。
FCとは暖簾分けだと思っているunreveのグッさんです^^










さて、暖簾分けは料理の世界では特にさかんに行われています、
有名料理人のお弟子さんがオープンさせた店とかよく聞きますよね。



これはその店の味、その店の技術を守って行きたい、という
純粋な継承スタイルだと思うのです。



フランチャイズと書くとビジネス寄りなんですが、
暖簾を分ける、というとなんだか人間味が出てきます^^




成功とか投資の概念だけでは本部と加盟店は
どうしてもステークホルダーの枠が出てくるんですが、




この味・このサービスを自分の住む地域に伝えたい!
という加盟店側の意識なら、ずいぶんと違ってきますよね。




そう考えると暖簾とは、親から子。孫からひ孫へと続いていく
家系図と似たようなところがあります。




何百年と続く歴史が暖簾という形に凝縮される、
これって日本的な情緒があると思うのは僕だけでしょうか^^?



お店が繁盛した。その店にほれ込んで弟子ができた。
その弟子が独立した時、同じ名前(暖簾)で増えていく。



そこに縦割りの組織体系とか中央集権とかはなく、
受け継ぎたい、伝えたいという気持ちだけです。




□■□■□




そこから生まれる「守・破・離」の精神、




「守」とは、師に教えられたことを正しく守りつつ修行し、
それをしっかりと身につける。



そこからの「破」で、師に教えられしっかり身につけたことを
自らの特性に合うように修行し、自らの境地を見つけ、



それらの段階を通過し何物にもとらわれない「離」へ向かう。







うーん・・・実にいーです( ̄▽+ ̄*)ジミジミ






ちなみに蕎麦屋さんって、
昔から暖簾分けの文化が根強い、と言われます。




でも味が同じかというとそんなことない。



しょっぱいものを好む地域とか
甘いものを好む地域とか、


量が多いほうがいいとか、逆に少なくして上品なほうがいいとか。
その地域地域の特性に合わせて商品を作っているので、
結果味も変わっていくらしいですね。



ただ、暖簾の精神が根底にある。
「こういう所を大事にしてる」とか、「この精神でやってる」と。




それって理念共有の一番大事な部分だと思うんです。
だから同じ屋号でもコピーではない、
FCのサービスの統一とは全く違う部分ですが、




僕はこれが一番大事な「お客に対する心配り」だと思うんですよね。
FCにしても同じ事が言えるんじゃないでしょうか?




FCの既成概念をここまでぶっ壊すのは僕くらいなんですが、
実用・現場主義で考えるとこれがベストな気がするんですよね。


2010/06/25

暖簾分け、日本流フランチャイズのすゞめ!





「日本流フランチャイズのすゞめ」とは
この国に長く息づく伝統の継承のこと。




こう書いてしまうと古臭く感じてしまいますが、
これからこの「日本流」の概念が大事になってくるのは
間違いないと思います。




なぜなら情報が溢れた今の時代ほど
この温故知新である「シンプルな価値」が
求められているから。




ではその「シンプルな価値」とは何か?




それが蓄積された実績を継承し、守るという
在り方に隠されていたんですね。




この国が桜が好きなのも、そんな一回性と
連続性を同時に感じるからかもしれません。




余談になりましたが、
今日はそんなところから。。。







さて、「フランチャイズ展開」と聞いて
イメージするのが「ブランドの形成」でしょうが、



当事務所では巷に溢れているような
「ブランディング」を目的にしたFCはやってません。




そもそも今のブランディングの概念は、
単に「目立つこと」だけを目的とした単純なもの、
手段である以上、いくらでも真似することができます。



確かに奇抜的なことをすれば一時的には
数は集まるでしょう、



しかしそれが「ブランド」になるか否かは
全くの別問題。本質はその奥にあります。



それが誇りであったり情熱(感性)。




他者の真似ではない、
自社だけが持つ「精神」ではないでしょうか。



☞☞☞



調べてみれば、この国には100年以上続く企業が
約2万社ほど存在し、中には数百年、千年続く企業もあります。



これは世界トップレベル。
まさにこの国が誇れる部分だと言えるでしょう。




ではその企業は上記のような
「目立つこと(ブランディング)」をやっていたのでしょうか?



もちろん、そんなことはやってません。
ただひたすら「事業の根幹」である暖簾を
守ってきたのです。




これこそ継承の本質であることから、
当事務所ではそれをフランチャイズに編集しました。





そんな簡単に形式化できないその精神と
向き合うことで初めて、自社の言葉で語ることができ、




それが真の「ブランディング」になるのです。