チビといる自分と仕事をしている自分。
友人と談笑してる自分と親と話している自分。
同じ「わたし」のはずなのに考える内容が
随分変わっているのが面白いですね。どれもそうだしどれも違う気がします。
なぜ私は私なのか。そもそも私ばある゙のがない゙のか。
これは哲学の世界で未だ答えが出ていません。
否、どの分野においても証明できないでしょう。
自分なんて存在しないと言っている自分は「ある」。
そして存在しないという証明は存在しないことを
証明(経験)しないといけない以上、この命題はトートロジーです。
今現在、呼吸してタバコを吸ってコーヒーを
飲みながらこの記事を書いている状況を見れば
疑いようもなく自分「で生きていると言えます。
でも寝てしまった後の呼吸や飲んだコーヒーを
消化することは自分の意思でやってません。
その意味では意思(意図)的に自分を生きてませんよね。
では一体、「何が」生きているんでしょう。
ただそうなっているとしか言えないのでしょうか。
ひとつ言えることは「わたし」とは、固有名詞で
決定できるものじゃないということ。体のどこかを
ゆび指しても私だと言えないし心だって見つけ
られやしません。指せるとすれば心臓くらいなもんでしょうが「わたし=心臓」ではありませんからね。
不連続で非同一。
今日の自分と明日の自分は同じようで同じじゃない。
なるほど、自己とはそういうものなのでしょう。
チビくん、僕らはとっても不思議な存在なのだよ。
3密を避けて川遊び。
石を投げてはキャっきゃと笑ってました(゜-゜)
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