前回に続き、二回目。
人を切る必要がなくなった泰平の世、
武士は生き方・存在意義を明確にしなくてはいけませんでした。
普通に考えれば武士はもう「必要としない」。
しかし政治を司る役割でもある以上、そうはいかない、と。
そこで当時の学者たちは武士たちに
理論化、体系化された答えを与えます。
それが山鹿素行の思想を代表とした
武道から士道への転換、「武士道」なんですね。
山鹿素行
葉隠の著者山本は本居宣長同様、そんな
理論理屈や体系化された学問(漢意)を批判したのです。
魂の抜けた理屈だけの理論では私情に溺れ、
やがて道を忘れてしまうのだ、と。
若侍どもの出会ひの咄に、金銀の噂、
損得の考え、内証事の咄、衣装の吟味、
色慾の雑談ばかりにて、この事なければ一座しまぬ様に
相聞え候。是非なき風俗になり行き候。
(略)
今どきの若者、女風に成りたがるなり。
結構者、人愛の有る人、物を破らぬ人、柔なる人と
云ふ様なるを、よき人と取はやす時代に成りたる故、
矛手延びず、突っ切れたる事とならぬなり。
面白い事に、現代人とさほど変わってませんね。
なるほど、精神というものは放っておけば
そういう風になってしまうものかもしれません。
故にそんな自意識(自我)を捨てよ、と。
勝手な解釈ですが無私の精神性こそ
「死ぬことと見つけたり」の本来ではないでしょうか。
命を粗末にしろという意味ではない。
「生存へと向かう自意識」ではなく
「存在へ向かう自己であれ」という事でしょう。
☞☞
とは言え、一度起きた風潮は変わらないもの。
明治では新渡戸がその思想を引き受けました。
後は説明するまでもないでしょう。
トインビーに従うならば繁栄は没落の開始、
ゴールとは終わりの合図です。
ローマしかり、大唐帝国しかり、
頂点へ辿り着いた後は、崩壊へと向かいます。
(豊臣もゼロサムになりましたね)
故に日本では「繁栄・成長」という名の「腐敗化」に
抵抗していたのではないでしょうか。
まあ、ネガティブと言えば
それまでですけどね(゜゜)
「後記」
「予言、予感することは容易だが
それに対処する行動を起こすことは困難だ」
三島はそう述べていたと言います。
そんな早すぎた行動が死へと前進させたのでしょう。
林房雄は三度に渡り、三島に
「他の道はある迂回せよ」と説得したようですが、
「他の道はある迂回せよ」と説得したようですが、
「迂回」とは「行動するな」に等しかった。
自分は老いたる引き留め役に過ぎなかった、と。
変人扱いされ笑いものとなるのは、世の常ですね。
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