2016/05/10

こころ、奪われるもの




この間、大分で秘宝を発見したので
それを飲みながら書いてます。





さすが秘宝。
さっぱりして、スイスイいけますな(。-∀-)んまー







そういやみなさん、綺麗なものを見たり、
美味しいものを食べたりした時って、
感動のあまり我を忘れたりしませんか?




僕はちょいちょい、経験があります。
そういう時って話す(説明する)のが
野暮ったく感じるんですよね。



多分に、優れた価値、美しいものには
我を忘れさせてくれる作用があるんでしょう。



てなわけで、今日は「価値」について。
あくまでも個人的な意見です(゜゜)








さて、一般的な価値と言えば相対的なものですが、
僕が思う「本当の価値」は相対的な何かではありません。



多分に絶対なものと「どこか」で
結びついているんじゃないかと思ってます。



理念が絶対的な幸福を照らし返すように、
比較するところにそれはない。



もし仮にそれで定義され、止まるような価値であれば、
それは単なる相対値に過ぎないでしょう。



例えば「おふくろの味」って
「不味い」に対する「美味い」ではないですよね。



味うんぬんじゃない。
もっと別の、(大げさにいえば)歴史的なものを
思い出させてくれる、唯一無二の食事なんです。



☞☞☞




また、絶対的な価値が発揮されているものは
見ている側に「自分もやってみよう」と思わせますね。



「私ってスゴイでしょ!」って言う
自意識ではなく「もっと知りたい」という
精神状態(無私)になる。



それも絶対的価値(最高の個性)の持つ魅力ですね。
一流の人はもれなく、そういった個性を持っています。




だからよくパクられる(笑)
これはある種の宿命ですよ。








情報化社会においてホンモノの定義が
「売れているから、選ばれてるから本物だ」という、
優勢劣敗、相対的価値になってしまっているけれど、




個人的には
「いかにそこから抜け出すか」ではないかと。



遠回りのようですが、多分にそれが最短です。




「後記」



全身全霊で「交わる」と、「私」は簡単に消えてしまい、
そこから再び我に返ることで、その体験は内部に吸収されます。



これは真剣に何かに取り組んだ時を思い出せば、
容易に分かることですよね。
そうやって人は成長していくのだと思います。



そんな「忘我」は理性を前面に出している限り
得ることはありません。



なぜなら自意識はそれを「恐ろしい」と感じるのです。
「わたし(我)を投げ出しても大丈夫だ」という
直接的な経験を持っていないと「迎える」ことは難しいでしょう。



「投げ出し」と「受け止め」を
少しずつ身につけてみてはいかがでしょうか。




・・・・・秘宝が回ってきたので今日はこのへんで((( ̄▽ ̄)))





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