2016/03/04

世界は自分の認識で「全て」作られているのではない




自分の主観を超えて感じた経験を
人はあまり信頼しなくなってる気がしますね。



虫の知らせを聞いた、死んだ母の声を、
何か神秘的な声を聴いた。



大げさなものでなくとも、
自分から離れた力というものは
ごく当たり前に存在するに違いない。



しかし現代はそれを許さないわけだ。
これはスピリチュアルという空想世界の戯言が広がりすぎたことが大きい。



宗教的形而上と自由七科の修辞学が
くっついたようなおかしな理論、
まさに2012年は大半がそれに踊らされたわけだ。




結果、揺り戻しが起こり
非常に科学的な根拠を持った意見が
今の常識を捉えようとしていますが、



実につまらんレトリックばかりが増えてますね。



あらゆる分野の学者が分析し、
もっともなことを言えば、それが
真実だと誰もが認めてしまう。



例えば「そんなもの、気の迷いだよ」という意見。
現代はその気の迷いを「心理的投影」 と言ってますね。



全部あなたの心の中にあるんだよ、と。
投影元を自己だけに限定してしまうんです。



そしてその法則性を盲信し、
あらゆるものに当てはめだす。



ともすれば昔の人が信仰していた太陽も
神秘性を投影したアミニズムだ、と。



天文学者は太陽を構成する物質を細かく説明し、
そこに神秘性がないことを証明し、


量子力学や脳科学やらと結びついて
人間の都合だけで世界を作り出す。



この都合ってやつが今の「認識」ってやつでしょう。



しかしそれは本当に、本当か?
本当に自分が全てを決定しているのか?





☞☞☞



例えば、誰だって朝日が昇るのを見ると
美しいと感じます、今でも初日の出は自然に拝みたくなるでしょう。




じゃあ、この「美しい」と思う心はただの主観か?
聖なるものとして拝んでしまうのは
主観を投影しているだけか?
いち人間の想像力だけで形成されたものなのか?




そうではなくて、実態として存在する
太陽そのものが「実際に」美しいんじゃないのか。




主観を飛び越えた、向こう側にある美しさを
我々は感じているんじゃないのか。



だからその美しさの源泉について、
我々は答えられないんじゃないのか。









しかし知識人はそれを許さないわけだ
投影だ、幼児期の経験だ、脳内の電気信号だと。



だったら歴史上の天才的な芸術家が感じた
美しさは全て、投影という過去の経験の上に
成り立っているということになるが、




あれだけ感受性ある人たちが、自己と向き合った人が
生涯そこに気が付かなかったわけがない。



人間の心の中で発明されたものではなく、
認識によって作られていないものが自然にはあると信じたんだ。



太陽だってそうに違いない。
古代の日本人もそう考えた。だから礼拝したんでしょう。




もちろんそこに学問的根拠はありません。
しかし、まっとうな人はそんな根拠など求めませんよ。
求めるのはいつだって、根底にある事実です。



そしてその根底にある事実は
歴史を見れば一貫している、と。
そう考えているんです。






情報ばっかり喰ってると認識がおかしくなる。
おかしくなるから、自分という体験もおかしくなる。




楽しいという体験をしているのか?
それとも楽しいと言われている情報を体験しているのか?




美味いものを喰っているのか。
それとも美味いと言われている情報を喰っているのか?




「コト」の体験はそれに気が付かなくなる。
気が付かなくなるのはいつだって「ヒト」の方ですよ。



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