2016/03/18

信じるとは。





「信じる」って言葉は日常当たり前に
使ってるので疑問すら持たないけど
調べれば全然合理的なものじゃありませんね。


例えば「信念」とか言いますが、
そこには感情もあればイマジネーションもある。
道徳的なものが入ることだってあるでしょう。


そんな様々なものを抱え込んで、
我々はその対象を信じてるんです。
不思議ですね。実際は根拠なんてないんですよ。



なんだか分からないけれど、ここに
物事の本質があるだろうと直感する、と。



例えば年商一千億を超えている企業の
経営者は「神頼み」をしてる人が多いと言います。


会員制で、年間数百万払ってお告げを聞く。
それってもう原理的に説明できないんだけど
実力も人脈も知識もある人が成功できず、
それより劣ってる自分が「なぜか」成功した
という経験を持った人は「それ」を信じているんです。


☞☞


反面「知る」ってのはいたって簡単なこと、
「誰でも同じように成立する情報」を得ることです。


そこに上記のような複雑な感情は入りません。
つまり我々の広大な経験領域を合理的経験だけに
絞ったものを「知識」と呼ぶのです。


それは狭いがゆえに加速的に発展することが
できました。しかし(諄いようですが)
我々はある程度の慣習に従って生きているけど、
背中には膨大な無意識を背負っているんです。


そのごく一部が意識として
合理的に働いてるだけに過ぎない。
そういったものが「感覚的に」分かってる人は
計測した数字ではなく感覚の方を信じます。


常に決定素材は流動している、と。
僕はそんな人が知恵のある人だと思ってます。





極論、人間には二つの道がある。



万人として知識を「知る」という道と、
個人として認識し「信じる」という道です。



個人としての信じることは常に個別的。
それは証明することは不可能なものです。



「僕は魂を信じる」というように、
経験は他の人とはどうしても共有できない。



それが経験的事実ってやつですが、
そんな人間の理性を超えたところに
本質ってものがあるんじゃないですか。




行動を繰り返すことで成功する人もいれば、
成功しない人もいる。



人の忠告を聞いてうまく行く人もいれば
我が道を進むことが正しいと言う人もいる。




怠けて成功、努力して成功。
怠けて失敗、努力して失敗。




多分、自分の好きなようにやって良いんですよ。




それはずいぶん前にカントが証明してます。



「本質は学問では証明できない」と。





「後記」



以前、とある地場飲食チェーンの
事業部長とお話した際、こう話してました。



僕が店長だった時、まったくお客が
入らなかった時期があった。



提供時間は悪くないし接客も良い。
場所も問題ないので、原因が分からない。



ずっと上司から怒られるもんだから、
お祈りとかお祓いにまで行ってましたね。



そんなある時、ふと「店内のBGM」の音量を
大きくしてみたくなったんです。



するとね、お客が増えだしたんですよ。
そこからどんどん売り上げが上がりだしたんです。




一般的な感覚で聞くと
「そんなわけないだろ、馬鹿々々しい」と
言いたくなりますが、



僕はこの話は実に健全な思想だと思ってます。



多分に、その部長さんの経験した秘密は
こういった感受性にあったんじゃないか、と。




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