「信じる」って言葉は日常当たり前に
使ってるので疑問すら持たないけど
調べれば全然合理的なものじゃありませんね。
例えば「信念」とか言いますが、
そこには感情もあればイマジネーションもある。
道徳的なものが入ることだってあるでしょう。
そんな様々なものを抱え込んで、
我々はその対象を信じてるんです。
不思議ですね。実際は根拠なんてないんですよ。
なんだか分からないけれど、ここに
物事の本質があるだろうと直感する、と。
例えば年商一千億を超えている企業の
経営者は「神頼み」をしてる人が多いと言います。
会員制で、年間数百万払ってお告げを聞く。
それってもう原理的に説明できないんだけど
実力も人脈も知識もある人が成功できず、
それより劣ってる自分が「なぜか」成功した
という経験を持った人は「それ」を信じているんです。
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反面「知る」ってのはいたって簡単なこと、
「誰でも同じように成立する情報」を得ることです。
そこに上記のような複雑な感情は入りません。
つまり我々の広大な経験領域を合理的経験だけに
絞ったものを「知識」と呼ぶのです。
それは狭いがゆえに加速的に発展することが
できました。しかし(諄いようですが)
我々はある程度の慣習に従って生きているけど、
背中には膨大な無意識を背負っているんです。
そのごく一部が意識として
合理的に働いてるだけに過ぎない。
そういったものが「感覚的に」分かってる人は
計測した数字ではなく感覚の方を信じます。
常に決定素材は流動している、と。
僕はそんな人が知恵のある人だと思ってます。
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極論、人間には二つの道がある。
万人として知識を「知る」という道と、
個人として認識し「信じる」という道です。
個人としての信じることは常に個別的。
それは証明することは不可能なものです。
「僕は魂を信じる」というように、
経験は他の人とはどうしても共有できない。
それが経験的事実ってやつですが、
そんな人間の理性を超えたところに
本質ってものがあるんじゃないですか。
行動を繰り返すことで成功する人もいれば、
成功しない人もいる。
人の忠告を聞いてうまく行く人もいれば
我が道を進むことが正しいと言う人もいる。
怠けて成功、努力して成功。
怠けて失敗、努力して失敗。
多分、自分の好きなようにやって良いんですよ。
それはずいぶん前にカントが証明してます。
「本質は学問では証明できない」と。
「後記」
以前、とある地場飲食チェーンの
事業部長とお話した際、こう話してました。
僕が店長だった時、まったくお客が
入らなかった時期があった。
提供時間は悪くないし接客も良い。
場所も問題ないので、原因が分からない。
ずっと上司から怒られるもんだから、
お祈りとかお祓いにまで行ってましたね。
そんなある時、ふと「店内のBGM」の音量を
大きくしてみたくなったんです。
するとね、お客が増えだしたんですよ。
そこからどんどん売り上げが上がりだしたんです。
一般的な感覚で聞くと
「そんなわけないだろ、馬鹿々々しい」と
言いたくなりますが、
僕はこの話は実に健全な思想だと思ってます。
多分に、その部長さんの経験した秘密は
こういった感受性にあったんじゃないか、と。
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