2016/03/20

歓びは常に自己中心的で自然に派生するもの。




心に浮かんだことを筆に任せて書くことを
随筆と言いますが、



僕のブログはこの「任せる」部分が大きいですね。
こう書いてやろうという計画性が全くない(笑)



まあブログはソーシャルと違って
対話目的ではないので好きにやってますが、



困ったもので、
僕が自分の思う考えを発信すると
どうしても誰かの思想を蹴とばしてしてしまう。
ともすれば反社会的思想にもなってしまう。



もっと整えなくては、と思うんですがね。
なかなかうまくいかないものです。




と、言い訳と前置きはそれくらいにして、
今日はそんな所から。。。。







僕はよく仕事への「情熱」について書いてますが、
情熱は他人が強要できるものじゃありません。



「それは君の情熱が足りないからだ」って言う
熱血漢は、ある意味分かってるけど分かってない(笑)



それを正確に書くとするならば、
自分で歓べるものを認識する」ってこと。
常に自己中心的、自然に派生するものです。



情熱は必ず、この「歓び」を伴っています。
逆を言えば、この土台がないと何も始まりゃしない。


信念の有無だって、歓びの有無ってことです。
そこに「本人の」楽しみがなければ、どれだけ
優れたことをやっても意味がない。



まあ、意味がないと言うのは極端ですけどね。
それが重要な幸福の素材であることは
経験上、間違いないと信じてます。



☞☞☞



得る歓び、会得した歓び、表現した時の歓び。



自分の中にあるもどかしさを整理できたとき、
人は歓びを感じます。芸でも術でもそうですが、
我が物になるとはそんなものです。



こういったものが個人の心の内にあれば、
情熱は絶えることなく、やってることへの信念も
どんどん深まってていくでしょうし、



人と比べてやれ損だ得だとは
思わないはずです。



「なるほど、そうか!」という自己充実感は
誰しも経験したことがあるでしょうが、
その歓びは感じるだけで十分。



わざわざ人を説得しようなんて思いません。



もちろん、それは自閉性や社会的視野の
狭さを招く可能性もあるのだけど、



それがないと、信念に育つことはない。
そもそも「創る」っていうのは、そういう行為です。



逆を言えば、歓びの実感が持続しているのならば、
信じるに値する土台となる、僕はそう思ってます。



☞☞



思えば、こういった歓びというものは
必ず苦しみが伴います。



ここは断言しても良いですが、
苦しくない所に情熱は起こってませんね。



一流と言われる人はそのことを知ってるみたいです。
やれ楽しいな、面白いな、だけでやってる人は誰もいない。



なるほど。何であれ
易しく、単純なものなんてすぐにつまらなくなるもの。
人生だって、容易くクリアできると飽きちゃうでしょう。



だから我々は永遠に問い続ける、と。
志向する道は普遍へと続くのは分かってるけど、
それ自体は決して、掴めない。



それがいつの時代も変わってないってことは、
我々の精神がそういう風にできている証拠です。



それは成長するためのシンプルな原理、
幼児の時からまったく変わってませんね。




「後記」



ここで言う認識とは研究したり、
分析して出てくる知識じゃない。



水をh2oとして認識しても、人間を脳科学、
心理学的に定義したり分析しても、
リアルな実生活ではちっとも役に立ちません。



世間ではそんな解剖学みたいな
ことばっかりやってるみたいだけど、



それは何かしら相手を説得し、
利益を得ることが目的だからでしょうね。



利益がないのに相手を説得する人はいません。
人は他人に雄弁に語ったり説得しようするのは
いつだって、何かしらのメリットがあるんです。



ファンや信者を増やす物質的利益、
自己優越感に浸れる精神的利益、



その為の万人を納得させる「知識」です。
説き伏せりゃ勝ちですからね、そりゃそうです。



もちろん、そんな利益を追うのは我々が持つ、
ごく自然な感情なんですが、



そんなものを土台にすると必ず頭打ちになる。
僕流ですが、そう思ってます。




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