桜が咲き始めました。
先日見ると5分咲だったので、
来週末が一番の見ごろでしょう。
生命の躍動を感じるこの季節。
毎年ワクワクしますね(´-`).。oO
咲いて歓び、散って惜しむ。
我々は千年前から変わらず、桜を愛しています。
多分、もっと多様な時代になったとしても、
その愛情は変わらないんじゃないでしょうか。
西行法師も本居宣長も桜を愛してました。
本居さんなんて、遺言に絵まで描いています。
死んだら、自分の墓には一流の山桜を植えてくれ、と。
なるほど。本居さんのことを調べれば
染井吉野ではなく、山桜ではないとダメでしょうね。
熊本(阿蘇)にある山桜。
今の日本の桜の大半は染井吉野、
明治に入って広がった新種の桜です。
一番育てやすいということで、植木屋と
文部省が結託して学校を始め、一斉に植えられたものです。
山桜と染井吉野は違います。
僕はよく見に行くので分かりますが、
山桜は花と葉っぱが同時に出てきます。
また、染井吉野と違って一気に散るのではなく
ゆっくりと散っていきます。
昔の日本に咲いていた桜はみんな山桜です。
古来の日本人は、その桜が好きだったんです。
勘違いしている人も多いのですが、
桜は武士の生き方の様に一気に咲いて、
一気に散っていくものなんかじゃない。
もちろん、染井吉野のような潔さも十分に綺麗です。
小林の言うように「低級な桜」とは思えない(笑)
ただ山桜には別の美しさ、気品というものが
あるなということが、この年になって分かってきましたね。
☞☞
「敷島のやまと心を人間はば、
朝日ににほふ山桜花」
この有名な歌は山桜と大和心を歌っています。
におふは(匂う)と言う漢字ですが、
ここでの意味は「色が染まる」ということ。
万葉集の時代での匂うとは、
嗅覚だけじゃなく、視覚や触覚に現れていた。
朝日を浴びた山桜はまさに「匂う」といった感じがしたのでしょう。
古来の太陽は神聖なものです。
神と交わることで花が咲き、それが徐々に散っていく。
まさに我々も同じようなものでしょう。
そこに古来の日本人はもののあはれを
感じていたんじゃないですか。
死と再生の象徴だという端的な言葉で
桜を表現してしまうのではなく、
奥底で「感じる」美しさというものを
我々は確かに感じる、という感性の経験、認識です。
「なるほど、これが私の持っている
美意識であることは間違いない」と実感するんです。
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美は語るものではなく、感じるもの。
教科書を開けば載っているというものではありません。
ただ形式にできないけれど存在するという
事実は桜を見れば明らかじゃないか。
宣長はそう言っているように感じますね。
桜が国花である所以は国民性の象徴というよりも、
桜を媒体として自己の精神性を認識することです。
その美意識は誰だって持ってます。
だから相反する「美ならざるもの(醜)」を見たとき、
我々は強烈に違和感を感じ、抵抗するのです。
それが内なる心の声ってやつじゃないですか。
昔の「汚らわしい」という言葉や「下衆(げす)」という
言葉は見た目じゃない。醜悪な精神に嫌悪しているんです。
その判断を根底で支えているのが美意識です。
これは道徳的なものではない我々の持っている
本来の善性だと思ってます。
そしてそれは悪の対義語ではない。
対義語だったら関係性はイーブンですからね。
確かに醜があるからこそ、美は存在するれけど、
美意識は醜を包括している、包みこんでいる。
桜の美しさは散っていく姿も含まれています。
生まれては老いていく人間の美しさもまたしかり。
だからこそ美しい、と。
来週が楽しみです。
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