現在の時刻は午前4時半。
おかしな時間に目が覚めてしまいました。
今コーヒーを飲みながらタバコをくわえて
キーボードを叩いてますがね、なかなか目が覚めませんな。
さて、何を書こうか。
というか、何で書こうと思ってるのかしらん。
(笑)
ちと時代に反したテーマを
独白的に書きましょうかね。時間も時間だし
リアルタイムで見ている人は少ないでしょう。
あくまでも個人的な意見ですが、人によっては
腹の立つ内容かもしれませんので、そこはご勘弁ください。
☞☞
経験とは自分だけしか得ることのない
独学であって、そこからの理解とは
独力によって生きた知恵を得ること。
ここまでは間違いではないでしょう。
となれば、それは苦労を積み重ねることであると言えます。
もちろん、楽しい経験も学びになります。
ただ思い出してみれば、その楽しさというものは
困ったときの救いになるものではなく、「楽(らく)」でもない。
大きいものから小さなものまで千差万別、
事情も勝手も違いますから一緒くたにできませんが、
合点というものはそのようなものでしょう。
つまり今まで「点」に過ぎなかった知識の集合体を
「自分の力で」一つに繋げている、と。
ある日「ふと」とか言いますけどね、
我々はそれまでの間、ずー・・と考え続けてます。
まさに自問自答でしょう、こうだろうと仮説を
立てながら、同時に疑っているのはすべて
自分の「想像力」です。
もしこれが知識だけで楽に答えが出るならば、
四六時中ネットを見てればいいだけの話じゃないですか。
ただ、いくら知識をたくさん知ってたとしても
それは「乗り越えた誰かの経験」の後追いであって、
自分がそうなるかどうかは別問題です。
試しに経済学者は一から商売してごらんなさい。
知識が経験に勝るなら、全員大金持ちになるはずです。
☞☞☞
我々は生きている限り、必ず苦労は
ついて来る。そしてそれを自分なりに
解決できた分だけ、独力が身に付きます。
僕はこの認めたくない事実を認めるしかありませんね。
それはつまり、困難を引き受けるってことです。
見れば本当に生きている人は、
苦しみの連続の中から楽しさを作ってる。
初めからそれを掴もうだなんて思ってません。
なるほど、簡単に分かったものなんて
単に知識が一つ増えたにすぎないということを
彼らは心の底から理解しているわけだ。
単に知識が一つ増えたにすぎないということを
彼らは心の底から理解しているわけだ。
上記のそれは分かるではなく、単にその言葉に
「寄りかかってる」だけのことでしょう。その人は
その文字や体系に自分を託しているわけでしょう。
文字は1000年経っても消えませんからね。
ピラミッドの三角錐構造もまた、永遠に変わりません。
しかし、それを丸暗記してあぐらをかいてると
間違いないく鈍くなるものがあります。
それがその人の持つ、身体的な
感性や想像力じゃないですか。
自分の頭と心を使わないと、いっこうに働かない。
やがて思考停止していることに気づかないんです。
想像力とは記憶の力です。疑う力です。
これは説明すると長くなりますが、
それを呼び覚ます力が主体性の源泉であって
そんな自分の独力を知識に託してしまった人を
僕は皮肉を込めてインテリと呼ぶんです。
インテリのコンサルは良い仕事など出来ませんよ。
知識から発想やひらめきは生まれませんから、
ずー・・・と覚えた単語を復唱するだけです。
知識は覚えれば覚えるほど、その言葉の枠に
はまってしまう性質があるんです。
☞☞
このブログを見た人がたまにこう言ってきます。
「小林秀雄は難しいから、もっと簡単に説明してくれ」と。
そんなもの、問いの時点で間違ってます。
一人の人間が一生かけて考え練り上げたものを
簡単に説明するなんて、出来っこありません。
どんな人間だって理解しようとすれば
難しくって、時間がかかって、苦労します。
僕だって半分も理解してない。
いや、半分は分かってるかもしれませんが(笑)
日記なら話は別ですよ。いついつ、どこどこに行って
何々をしたと言うだけですからね。
しかし人間は固定できないんです。
そして経済は常に、我々人間と言う
やっかいなものを抱え込んでいるんです。
ここに既婚者がどれだけいるか存じませんが、
奥さんを完全に理解している人って、どれだけいますか。
多分ほとんどいないでしょう。当たり前のことです。
真剣に理解しようとすればするほどそうなるはずなんです。
しかし誰だって簡単に分かる説明を求めてしまう。
すぐ知りたい、たくさん知りたい、簡単に説明しろ、と。
なんてもんが流行ってしまう。
こういったことをする人の心理はこうだ、
こういった人はこれをする可能性が高い。
そうなると「答えがある」と勘違いさせてしまう。
これはもう、現代の病理ですね。
snsで知らない人とでも繋がれますので、
たくさんの人を知ることができそうなイメージですが、
逆に、ますます人間ってもんが
分からなくなってきてるんじゃないですか。
☞
学校もそう、先生がすでに答えを知ってて、
それを隠してるだけの形式になってますね。
生徒はただそれを探し当てるだけ。
基本、テストでは○か×しかないでしょう。
そんなものに自問自答なんてありません。
だって自分自身に質問していないじゃないですか。
それで反省や内省など起こりますか。
歴史の教科書で学んだものはすべて正解ですか?
違うでしょう。それが通用するのは
数字(数学)だけです。美術も音楽も○×では
判断できない世界なのに、どうして優越つけるんですか。
問う力はそんな小さな頃から奪われているんです。
聞けば、教育現場は「人間力」とか言ってますがね、
これもまた、大半が人間力という「正解」を教えるだけでしょう。そうなるとまた、「人間力を養うにはどうすればいいのか」
と、答えを探す人が必ず出てきます。
この無意識の癖が分からないと
将来必ずやってくる「苦労」に対し、
どこかに「解決方法がある」と信じてしまい、
探し回る破目に陥るんじゃないですか。
☞
だからこそ、学びながらも捉われず、
常に自分へ問い続ける形式(独学)と対話こそ
独自性であると思っています。
そこで信じえたものは盲信ではなく、
自らの経験によるぶれない軸、尊信になるでしょう。
あっ。そろそろ6時になりますね。
ではここらへんで、独白を終わりにします。
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