・アメリカという国は、個性を尊重するようでいて
じつは個性を大事にすることを知らない国です。
それを真似ているんですから食べ物にも個性がなくなっていきますね。
これは岡潔さんの言ってた言葉ですが、
実に思想の的を得ていますね。
本質を掴んだ言葉は色褪せることはありません。
僕のクライアントさんには若い頃に
アメリカに渡り、働いてた方がいるのですが、
やはり似たようなことを仰ってました。
自由、自由、自由の国アメリカ。
一見、幸福の象徴のように感じますが、
自由の意味である英語「Free」を見れば
必ずと言っていいほど「from」がセットです。
つまり「from(~からの)」自由であって、
自らが主体的に獲得するという意味ではないんですね。
(フリーダムも拘束や障害などがないという意味)
そんな抑圧からの解放から来る個性や自由は
壊れた蛇口ですから、ひとたび都合が悪くなれば
放縦的な振る舞いになる場合があるのです。
(もちろん、全てではありませんが)
なるほど、岡はそれを見て
「個性を大事にしていない」と言っているのでしょう。
反面、日本の自由は「自らに由る」こと。
つまり「主体的に」結果を「受け入れる」という
覚悟と責任が伴っているんですね。
日本流の自由意識とは何か。
自由自在の精神とは何か。
今日はそんなところから。。。
さて、この国の自由とは自己主張だけではなく
自己抑制を兼ね備えていました。
つまり「主体的に」結果を「受け入れる」という
覚悟と責任が伴っているんですね。
日本流の自由意識とは何か。
自由自在の精神とは何か。
今日はそんなところから。。。
さて、この国の自由とは自己主張だけではなく
自己抑制を兼ね備えていました。
例えば博愛とはまさに自己犠牲を
伴った精神に他ならず、かの震災で
世界中から賛美された我々の行動規律も
そういった精神によるものでしょう。
世界中から賛美された我々の行動規律も
そういった精神によるものでしょう。
それは誰から言われたわけでもなく、
自らが主体的に決定した個別結果の集積ということ。
中にはどこぞの国と同様、どさくさに紛れて
盗みや性犯罪を行う人もいたようですが、
多くの人が生きるか死ぬかの状況にも
盗みや性犯罪を行う人もいたようですが、
多くの人が生きるか死ぬかの状況にも
関わらず、自らの本能や欲望を抑えていた。
自衛隊だってその精神で任務を遂行しました。
自衛隊だってその精神で任務を遂行しました。
そんな精神の自由は決して目には見えません。
上記のように、個人の心の奥で働いている以上、
集団的に理解する事はできないものなのです。
☞☞☞
こういった主張と抑制のバランス加減は
他の国には真似することが難しいもの、
例えば、表現の自由、言論の自由は
権利であるのは間違いありませんが、
行き過ぎた風刺画を表現の自由だと言うように、
自己の正当性や権利ばかりを主張してしまいがちです。
お互い権利や主張を譲らなければ、
勝ち負けによってしか決着がつかないのは当然のこと。
自分を活かすことと、放縦は別問題。
これを一緒くたに考えるから、混線してしまうのです。
これを一緒くたに考えるから、混線してしまうのです。
知識ばかり詰め込むと「我慢は悪」だの
「自己肯定せよ」だのという言葉を都合よく
解釈してしまいますが、そうなると大半が「ブレーキ」を嫌がるでしょう。
あれは嫌だ、これはしたくない、偉そうに指図するな、と。
もちろん、ムラ社会ですから
極端に抑圧を強要する人もいますが、
加減を知らない人は全員放っておけばいいんです。
問題はこのような精神(条件)だけでは
意見の異なる他者との折り合いがつかないということ。
加減を知らない人は全員放っておけばいいんです。
問題はこのような精神(条件)だけでは
意見の異なる他者との折り合いがつかないということ。
そうなったら、アメリカみたいに正論を主張し合って、
仲良くできないなら攻撃しますか?
そんなもの傍から見て無益でしょう。
抑圧なき自由は戦うか逃げるかの
二者択一しかないんです。
☞☞
今の政治はそれと同じことをやっています。
もし、そういった自由が欲しいのであれば、
今の政治を肯定し、認めなくてはいけません。
もし、そういった自由が欲しいのであれば、
今の政治を肯定し、認めなくてはいけません。
そうなると大半が反対するでしょう、
まさに「されたら嫌なこと」である証拠じゃないですか。
国家だけでなく、我々は必ず組織や集団に
属する以上、自由の意味を再度理解しなくてはいけない。
現在、国家だけでなく、組織の構造を
トップダウンからボトムアップへと言ってますが、
リゾーム組織では同時に捉えなくてはいけません。
国家で言えば、完全なる国民主導の行き着く先は
大衆政治であり、国家主導であればその先にあるのは独裁政治です。
つまりどちらにも偏在させてはいけないということ。
個人である多と全体的である一との矛盾的自己同一
によってはじめて個が生き、全体が維持できる以上、
その統合概念を支える精神「矛盾の統合」を
学ぶ必要があるのです。
☞
一即多・多即一(即非・ヘーゲルでいう絶対精神)は、
集団と個人だけではなく、あらゆる考えを調和する
認識的根幹であると、unreveは考えています。
これこそ、継承されるべく伝わって来た
日本流の精神であって、その精神によって
この国は長年に渡って絶対矛盾(相反)するものを
統合し、自己同一化してきた歴史を持っています。
神仏習合、和洋折衷、和漢洋など、
統合するための精神はまさに「和魂」によるもの。
この歴史を永遠に伝えていきたいですね。
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