我々がある目的を持てば、
それと同時に手段が生まれる。
例えば、空腹を満たそうという目的が生まれれば、
我々は魚を食べ、野菜を食べ、肉を食う。
極論、水だって良い。
現実で可能な方法を選択するだけである。
つまり「手段」は目的さえ達成できるならば
いくらでも代替えが可能だということだ。
では、そういった「目的→手段→選択」の流れを
我々個人に適用するとどうなるか。
例えば社会的な目的、組織的な目的など、
公共(顔の見えない)が目的になってしまうと
社会的な存在であり個人である「わたし」は
社会適合という目的に対する「手段」として、適用されてしまう。
そうなると、我々がその秩序に適応すればするほど
我々は「代替え可能」な存在となってしまうだろう。
それを否定するには内部から出るか誰でもない
「外部(超越)」の存在(または象徴)を具現化させるしかない。
三島由紀夫はその具体的な超越者を
(皮肉を込め)天皇だとしていたのかも。
しかし天皇制と天皇ではまた話が違う。
それは多分、昨今の「右か左か」という
単純なスタンスの違いではなく右に理念(イデア)、
左に現実(リアル・ビジョン)の違いである。
理念は永遠に現実化されないからこそ
理念たらしめているのであって現実化されるものは
全てビジョンなのだから。
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