2010/10/06

絶対的価値と相対的価値

ども、unreveのグッさん(遺伝子組み換えではない)です。



さて、今回のテーマは「絶対的価値と相対的価値」について。




絶対的価値とは
「あなたじゃないと得る事ができない価値」。



特定の歌声や絵画、思想など
いわゆる「創造的価値」です。



ミケランジェロの作品やバッハの作った
楽譜と競争して勝つことなんて誰も出来ませんし、
逆に負けると言う概念もありませんよね。



「対がない」。それが絶対的な価値です。




それに対して相対価値は
「あなたじゃないといけない必要」がありません
競争して、比較して得られる価値、それが相対価値です。



それはコピー(模倣)や同一作業によって
得られる「数値」として優勢を争います。
受験や選挙、競争や価格などですよね。



同じものを売る小売店の場合はオリジナルを目指し
PB(プライベートブランド)という絶対的な価値に向かいますが、
その大半は相対価値、似たようなものしかありません。



そうなれば当然価格競争やチェーン店舗数で
その価値を生みださなくてはいけない。



「早い、安い」は結局「相対的価値」を
向上させる(と思っている)指針なわけです(・ω・)b



□■□■



自分の価値に気付かない人は大勢いますが、
誰にでも絶対的な価値はあると思っています。



なぜ自分に価値がないと思っているのか?
理由は簡単、今までの人生でやってきたのが
たまたま「相対的価値」だけだったから。



しゃーないですもん、ものごころついた時は
すぐに「お受験」ですし、



それが終われば就職競争ですし、
就職したら「誰にでも出来る仕事」を与えられるわけですから。



もちろん全てではないんですが、
そういった道から外れるとなんだか
「人生を踏み外している」と錯覚してしまう。



親は心配するし世間の目も気になるし
彼女からは「夢ばっかり追ってないでちゃんと現実を考えて」と言われるわけで(笑)




定年後に大事にとっておいても
その時はすでに忘れてるか枯れてしまう。
「才能とは継続できる事」なんで結果、萎んでしまうんです。




「俺には才能がなかったんだよ・・・」と。
いえいえ、才能は誰にでもありますよ。




「あの時こうしてれば良かった」とか
「あれがなければこんな結果じゃなかった」
といのは結局のとこ、



もっと上手くやれば別の良い結果が
あったのかもしれないという、期待に満ちた「if」ですが、



哲学者キルケゴールは
「船の中にある希望の積み荷を捨てれば、船は初めて芸術的航海をはじめる」と言ってます。




つまり、希望とは一見無くしてはいけない言葉のようですが
求めないことでこそ与えられる「何か」があるのではないかtって
言ってるんでしょうな。




確かに、希望は欲望と同じ、夢を追う事や
願望は下手すると「渇望」となりがちです。




ただ、前回の断捨離の話ではないんですが、
簡単に手放せないからこそ、今まで持っていたわけでしょ?



グッさんは捨て方には順序があると思っています。
(本来「ある」と言い切る状態から話をするのはルール違反ですが)



無理に捨てなくても、必要ないものは
自然にゴミ箱に行くんじゃないかしらん。



つまり「全てが方法論(思考)ありき」では
いつまでたっても苦労すると思ったグッさんは、
「まずはベース(幹)からでしょ~」と思ったわけです。



希望や願望や執着はあってもいいし、無くてもいい。



あって苦しいなら捨てれはいいし
それが嫌なら持ってていい。



その選択の結果が「絶対的な価値」ではないでしょうか?



自分で選ぶことで「あなたじゃないと得られない人生」が、
価値であり、それが後悔のない人生を作る。




ジョンロックのリベラリズムや
相互依存論に近いんですが



グッさん的には仏教哲理「不二論」の方が
馴染みます( ̄∇ ̄+)オマエ ホントニムシュウキョウ?




これ自体も無条件に正しいとは思えないへそ曲がりなグッさんですが、
お互いに内包している「共通項」がそうさせるんです。



つまり僕のせいじゃないです(爆)





「究極的真理は究極的真理がないことである」という空と、
「究極的真理は実はある」という空の空(より高度な矛盾、限界矛盾)がありますが、




「対立しているもの同士でもある点では一致している」。
目指すもの、必要なものは実はそれなんじゃないかと思うんです。




「グッさん暗い・・・・・暗すぎるよ」と言う意見は却下します(ノ´▽`)ノ ⌒(呪)



ではでは今日はこの辺で、

Bless youアップ