2016/09/23

情熱の因子





今日は情熱について書こうと思いますが
そもそも論として、言葉が情熱を奪う
邪魔ものであるのは言うまでもありません(゜゜)



低俗な観念によって情熱を記号として
表現するとおかしくなるもの、



 よって今回は概念的に語ろうと思います。






さて情熱というものは端的に言えば
「入り込んでいる」、つまり身を預けている
状態のことだと思ってます。




ここで「入り込むとは何か?」や
「どうやって身を預けるのか」を説明すると
冒頭のような低俗な観念になってしまうので
あえて書きませんが、 何かに夢中になってる人は
そうなっていますね。




歌う人、踊る人、作る人。




彼らは情熱について自分にも他人にも
その感情を説明するようなことはない。
分析し、解釈するような つまらん立場にはいないのです。



故にだからこそ、そんな人を見ていると
思わず惹きつけられてしまいますね。



なるほど、
恋と同様、アタマでどうこうできるものじゃない。



なぜか「入り込み」、「落ちる」のでしょう。



☞☞



見れば、我々はこういったことを
日常よくやってます。



例えば誰かに言葉で説明しにくいこと、
言い表しにくいことを聞いてもらいたい時、
我々は熱心に語ろうとしませんか?



そこで上手く説明してやろうと思えば思うほど、
その熱意は失われませんか?



なぜなら熱意には直観もまた
含まれているから。




それが想像力や経験や整理総合的推論といった
理性によって「後で」解釈されていく。そうじゃないですか。



☞☞



直観と情熱があれば人は勝手に動き、
それに共感すれば人は自然に従い、それがなければ見向きもしない。 



それが我々の持つ、数少ない
普遍的な感性ってやつじゃないですかね。




だからこそ、FCにも熱が必要かな、と(゜-゜)



「後記」


余談ですが、ゲーテは他人に自己の思想を
語ることを恐れていたと言います。


人に語ることで、内部から沸き起こる意欲が
失われてしまうと。なるほど、思想の深化とは
自己との対話であって、他人ではありませんからね。



以前、作家もそうだと書いたのですが、
こういったものは我々にもあるんじゃないかしらん。



例えば人に悩みや愚痴を言えばスッキリします。
それは多分に、何かしらの「負のエネルギー」が
吐き出されたってことでしょう。



しかし、それは完全な負(マイナス)なのか。
純粋で、100%不要なものなのか。



もしかすると「正のエネルギー」も同時に
失われているのではないか。


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