僕が小さい頃ゲームの攻略本なんてのは
存在せず、自力でやるしかありませんでした。
分からない時は友人に聞いたり、上手な人のプレイを
見ながら上達したもんです。
ただ暫くして攻略本が発売されはじめ
難解なものも楽にクリア出来るようになった。
そこから「自力でクリアしなければ」という
苦労からは解放されましたが、今思えば攻略本が
出る以前と出た以降では全く楽しみ方が変わってましたな。
行き詰ったとき本を開けば簡単に答えがわかる。
つまりもう、絶対に自力で解くしかないという制約が
本の登場によって失われてしまったという事でしょう。
「見なきゃいい」と言う意見もあるだろうけど
「答えが存在する」という事自体、なんか違うわけですよ。
昔と比べ、非常に便利になった。楽になった。
それさえ見れば、誰もがサクサク進めるようになった。
確かにそれはそうだけど、
満たされたが故に感じるのは、
満たされなかったが故にできたことの喪失感。
我々人間は贅沢なもので、得たものと同時に
失われたものも懐かしんでしまうわけだ(笑)
✍️✍️✍️
さてさて、ではこの人生はどうか。
人生はゲームと言う者がいるが、
人生ゲームに攻略本はあるか、法則はあるか。
インターネットが登場し、人生を攻略したと
叫ぶ人がたくさん増えたが、叫んでは消え、
叫んでは消えの繰り返し。彼らが一体人生の
何を攻略したのか分からないが、それは
攻略ではなく偶然的なもの累積でしょう。
個人の人生ならまだしも、人類の攻略本なんて
見たことがない。多分に人生で与えられるのは
取り扱い説明書だけなんじゃないかしらん。
さらに言えば「クリア」という概念もない。
つまり、そういう事でしょう。
✍✍
小林秀雄は将棋という遊戯が人間の一種の
無智を条件としていることが分かってました。
名人達の読みがどんなに深いと言っても全知に届くことは不可能だ、と。
故に、だからこそ、勝負という概念が
成立するのであって仮に将棋の神様が
二人で将棋を差した場合、無意味なものにしか
ならないと看破したのです。
なるほど。この将棋は「人生」にも置き換えられますね。
「ともかく、先手必勝であるか、後手
必勝であるか、それとも千日手になるか、
三つのうち、どれかになる事は判明する筈だな」
「そういう筈だ」
「仮りに、後手必勝の結果が出たら
神様は、お互にどうぞお先きへ、という事になるな」
「当り前じゃないか。先手を決める
振り駒だけが勝負になる」
「神様なら振り駒の偶然も見透しのわけだな」
「そう考えても何も悪くはない」
「すると神様を二人仮定したのが、
そもそも不合理だったわけだ」
「理屈はそうだ」
「それで安心した」
「何が安心したんだ」
「結論が常識に一致したからさ」
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