2017/08/05

人生に説明書はあるが、攻略書はない。


僕が小さい頃ゲームの攻略本なんてのは
存在せず、自力でやるしかありませんでした。
分からない時は友人に聞いたり、上手な人のプレイを
見ながら上達したもんです。


ただ暫くして攻略本が発売されはじめ
難解なものも楽にクリア出来るようになった。
そこから「自力でクリアしなければ」という
苦労からは解放されましたが、今思えば攻略本が
出る以前と出た以降では全く楽しみ方が変わってましたな。


行き詰ったとき本を開けば簡単に答えがわかる。
つまりもう、絶対に自力で解くしかないという制約が
本の登場によって失われてしまったという事でしょう。


「見なきゃいい」と言う意見もあるだろうけど
「答えが存在する」という事自体、なんか違うわけですよ。






昔と比べ、非常に便利になった。楽になった。
それさえ見れば、誰もがサクサク進めるようになった。


確かにそれはそうだけど、
満たされたが故に感じるのは、
満たされなかったが故にできたことの喪失感。
我々人間は贅沢なもので、得たものと同時に
失われたものも懐かしんでしまうわけだ(笑)



✍️✍️✍️


さてさて、ではこの人生はどうか。


人生はゲームと言う者がいるが、
人生ゲームに攻略本はあるか、法則はあるか。


インターネットが登場し、人生を攻略したと
叫ぶ人がたくさん増えたが、叫んでは消え、
叫んでは消えの繰り返し。彼らが一体人生の
何を攻略したのか分からないが、それは
攻略ではなく偶然的なもの累積でしょう。


個人の人生ならまだしも、人類の攻略本なんて
見たことがない。多分に人生で与えられるのは
取り扱い説明書だけなんじゃないかしらん。



さらに言えば「クリア」という概念もない。
つまり、そういう事でしょう。



✍✍



小林秀雄は将棋という遊戯が人間の一種の
無智を条件としていることが分かってました。
名人達の読みがどんなに深いと言っても
全知に届くことは不可能だ、と。


故に、だからこそ、勝負という概念が
成立するのであって仮に将棋の神様が
二人で将棋を差した場合、無意味なものにしか
ならないと看破したのです。


なるほど。この将棋は「人生」にも置き換えられますね。





「ともかく、先手必勝であるか、後手
必勝であるか、それとも千日手になるか、
三つのうち、どれかになる事は判明する筈だな」 



「そういう筈だ」 


「仮りに、後手必勝の結果が出たら
神様は、お互にどうぞお先きへ、という事になるな」 


「当り前じゃないか。先手を決める
振り駒だけが勝負になる」 


「神様なら振り駒の偶然も見透しのわけだな」 


「そう考えても何も悪くはない」 


「すると神様を二人仮定したのが、
そもそも不合理だったわけだ」 


「理屈はそうだ」 


「それで安心した」 


「何が安心したんだ」 


結論が常識に一致したからさ






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