2018/02/15

考えるを考える






漢意(からごころ)とは人が生み出した
観念や概念や原理(イデオロギー)、
すなわち言葉で限定することによって「ヒト」に
認識できるように作られた方法論です。


俗なところで言えば占いなんかもそうでしょう。
「それ」があると目の前にあるものは既成概念に
すぐ置き換えられ、判断されてしまいます。
「あ、桜だ」と思った瞬間、もう目の前にある
存在は観ていないんですね。



宣長さんはこの解釈によって本来の心である
「もののあはれ」が分からなくなっていると断じ
徹底的に疑いました。感性へ向かうことと
思考を捨てることとは似てて非なるもの、
思考の放棄ではなく寧ろ考えることを考える
態度が重要だ、と。


例えばこの世はコインの裏表のような
相対の世界だと中華思想では言われます。
陰と陽、善と悪、暑い寒いといった
二項が対立することで成り立っていて(二極)、
さらに言えばその根源は一つ(太極)であると。


しかし宣長さんはここで「なぜ世の中は
そうなっているのか?」と問いを立てたのです。


さて、皆さんはなぜだと思いますか?
「二つに分かれないとこの世界は存在できない」
と言うのであれば、なぜ存在できないのでしょうか。


以前ブログにも書いたように、
究極の問いとは正解を出すことではなく
逆に正解という概念を崩壊させるんですね。
なぜならどんな精巧な理論であったとしても
その根拠に対してさらに問いを立てていけば
必ず行き詰まってしまうから。


その行き止まりの場所を宣長さんは
奇異(くすしあやしき)と呼びました。
そしてそれは虚無的なものではなく我々の
漢意を取り除いた実体の世界なんだよ、と。


多分に小林の無私もそのようなもの、
私を消すことによって現れる「わたし」、


この純粋経験はマズローの至高体験に通じるものがある気がしますね。





大事なのは、自然を見るというより、寧ろ自然に見られる事だ。
~小林秀雄~




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