この間、とある集まりの中で
理念について語っていた際、
アップル社には明確な理念がないけど
あれだけ素晴らしいサービスを
打ち出しているじゃないか、という意見が出た。
なるほど。
「外部に明言する理念」など、
なくても良いという好例だろう。
そこで
「では、あなたは必要だと思いますか?」と
質問をしたのだけれど、そこから先の答えは
揚げ足取り、言葉じりを捉えたものばかりだった。
ただ単に批判したかったのか、それとも
正論(反論)のようなものが欲しかったのか。
後味の悪さだけが残った。
そんな集まりだった。
個人的に、顔を突き合わせた上での
批判というものは必要だとは思っている。
(ちなみに、ブレストの批判厳禁はルールが異なります)
批判そのものを禁止するという態度は
我が身可愛さの保身である以上、
イエスマンだけが集まりがちだからだ。
ただ、そこに批判側の「バックボーン」がなくては
お互いを理解することなどできない。
「必要な人は必要ですし、
不要な人は不要でいいでしょうね」。
僕は最初にそう、断りを入れた。
理念はイデアだと思っているので
僕は必要だという立場にすぎないとも伝えたのだか。
批判によって優越感を得たいのなら、
まず「己が信じているもの」をこちらに見せよ。
今日はちょっと辛口批判なので
お勧めはしません、あしからず(゜゜)
☞☞☞
ちなみに先ほどの例でいえば、
アップルは明確な理念がなかったのではなく、
単に提示する必要性がなかったのだと思っている。
その証拠に、彼はビジョンの共有を目指していた。
概念であるビジョンを端的な言葉にしたのが理念だろう。
だったらそれは様々なシーンで語られている。
かの有名なCM「シンク・ディファレント」など、まさにそうだ。
禅に傾倒していたので、不立文字として
示していたのだろう、というのが個人的な解釈であるが、
そもそも、こういった解釈で語ったところで
何の意味もない。
なぜ自分以外の「正解・不正解」を求めるのだろう。
多分に、自分で問いを立て、自分で答えを考えていく
自問自答をやっていないのだ。
僕は考えることなく情報次第で、態度や思想や
信じる信じないをコロコロ変える風見鶏人間が大嫌いだ。
誰だって未熟であるから、間違いもある。
嫌いなのは、ケジメもつけず取り込み、
迎合しようとするその精神である。
例えば、最近になってようやく日本流が広がりだした。
大手FCが対話による場の形成をやりだした。
画一化から、個店カスタマイズへ舵を切っている。
西洋式の「型」を守っていたところが
どんどん日本流の編集(破)を行っているのだ。
と同時に、それまで批判していたところの態度が変わった。
まさにご都合主義である。
そのせいか、講師として依頼されたりもした。
丁重に「断った」のだが。
尻馬に乗るのは誰だってできる。
難しいのは、一番最初にそれを始めた人と、
それを信じた人だ。
後出しジャンケンの風見鶏は信用ができない。
今まで散々、集まって小学生のイジメみたいなことを
していたからなおさらだ。
どうせまた、指す方向が変わってくるだろう。
これは軽蔑か?もちろんそうだ。
☞☞
知人に、ダイレクトレスポンス・マーケティングで
一躍有名になった某コンサルタントが最近出した本を
見てみろ、と言われて見てみたのだが、
そこに書いているのは「場の形成」だの
「金だけじゃない」だの「日本の良さを広げよう」と言った内容だった。
呆れた。思想が180度変わっている。
まるで戦時中の「鬼畜米英」から戦後の「アメリカ万歳」である。
時流に乗っかる腕は一流だけれど、
こちらからすれば軸なし。空っぽとしか言えない。
一旦信じたなら、とことんアメリカ流を広げよ。
間違ったのなら、責任を取って廃業する覚悟くらい見せよ。
僕だって間違って信じるかもしれない
ただ、その時はいつでも責任を取る覚悟はある。
(そもそも調和が間違いである経済なら興味はない)
だからこそ、徹底的に問い続けた。
今の西洋式(近代化)を問い、歴史を問いただした。
快楽を求め、競争を好み、拡大と画一化を目指す
西洋の文化と資本主義で育った自らの環境を問うことなく、
本質など求めれば、間違った前提に帰結するだろう。
そんな前提や自己を貫くもの。
これが考えることではないだろうか。
もちろん、それは異質でありマイノリティである。
だからこそ、理念によって生きにくい現実を生きるのだ。
信じるものが非常識であればあるほど、
現実と衝突する。しかし、それによって
本当の理念とは何かが見えてくるだろう。
逆に、それがなければ、現実と衝突はしない。
衝突せず、とりあえずやり過ごすだけである。
言うまでもなくその態度で得るものは後悔だけである。
実は私もそう思ってた、「だけど・・・」と。
それはただ、現実に負けただけ、
環境に従属しただけである。
☞
昨日まで信じていた真実が
誰かが言ったセリフであるのなら、
今日見た誰かの言葉によって変わることもあるだろう。
そういうものを反省とか学びとか
言うのであればやればいい。
そう思っている今日の自分もまた、
必ずいつか後悔するだろう。
誤魔化しが慢性的に持続した精神などに、
信頼できる拠り所などはないのだ。
批判によって優越感を得たいのなら、
まず「己が信じているもの」をこちらに見せよ。
今日はちょっと辛口批判なので
お勧めはしません、あしからず(゜゜)
☞☞☞
ちなみに先ほどの例でいえば、
アップルは明確な理念がなかったのではなく、
単に提示する必要性がなかったのだと思っている。
その証拠に、彼はビジョンの共有を目指していた。
概念であるビジョンを端的な言葉にしたのが理念だろう。
だったらそれは様々なシーンで語られている。
かの有名なCM「シンク・ディファレント」など、まさにそうだ。
禅に傾倒していたので、不立文字として
示していたのだろう、というのが個人的な解釈であるが、
そもそも、こういった解釈で語ったところで
何の意味もない。
なぜ自分以外の「正解・不正解」を求めるのだろう。
多分に、自分で問いを立て、自分で答えを考えていく
自問自答をやっていないのだ。
僕は考えることなく情報次第で、態度や思想や
信じる信じないをコロコロ変える風見鶏人間が大嫌いだ。
誰だって未熟であるから、間違いもある。
嫌いなのは、ケジメもつけず取り込み、
迎合しようとするその精神である。
例えば、最近になってようやく日本流が広がりだした。
大手FCが対話による場の形成をやりだした。
画一化から、個店カスタマイズへ舵を切っている。
西洋式の「型」を守っていたところが
どんどん日本流の編集(破)を行っているのだ。
と同時に、それまで批判していたところの態度が変わった。
まさにご都合主義である。
そのせいか、講師として依頼されたりもした。
丁重に「断った」のだが。
尻馬に乗るのは誰だってできる。
難しいのは、一番最初にそれを始めた人と、
それを信じた人だ。
後出しジャンケンの風見鶏は信用ができない。
今まで散々、集まって小学生のイジメみたいなことを
していたからなおさらだ。
どうせまた、指す方向が変わってくるだろう。
これは軽蔑か?もちろんそうだ。
☞☞
知人に、ダイレクトレスポンス・マーケティングで
一躍有名になった某コンサルタントが最近出した本を
見てみろ、と言われて見てみたのだが、
そこに書いているのは「場の形成」だの
「金だけじゃない」だの「日本の良さを広げよう」と言った内容だった。
呆れた。思想が180度変わっている。
まるで戦時中の「鬼畜米英」から戦後の「アメリカ万歳」である。
時流に乗っかる腕は一流だけれど、
こちらからすれば軸なし。空っぽとしか言えない。
一旦信じたなら、とことんアメリカ流を広げよ。
間違ったのなら、責任を取って廃業する覚悟くらい見せよ。
僕だって間違って信じるかもしれない
ただ、その時はいつでも責任を取る覚悟はある。
(そもそも調和が間違いである経済なら興味はない)
だからこそ、徹底的に問い続けた。
今の西洋式(近代化)を問い、歴史を問いただした。
快楽を求め、競争を好み、拡大と画一化を目指す
西洋の文化と資本主義で育った自らの環境を問うことなく、
本質など求めれば、間違った前提に帰結するだろう。
そんな前提や自己を貫くもの。
これが考えることではないだろうか。
もちろん、それは異質でありマイノリティである。
だからこそ、理念によって生きにくい現実を生きるのだ。
信じるものが非常識であればあるほど、
現実と衝突する。しかし、それによって
本当の理念とは何かが見えてくるだろう。
逆に、それがなければ、現実と衝突はしない。
衝突せず、とりあえずやり過ごすだけである。
言うまでもなくその態度で得るものは後悔だけである。
実は私もそう思ってた、「だけど・・・」と。
それはただ、現実に負けただけ、
環境に従属しただけである。
☞
昨日まで信じていた真実が
誰かが言ったセリフであるのなら、
今日見た誰かの言葉によって変わることもあるだろう。
そういうものを反省とか学びとか
言うのであればやればいい。
そう思っている今日の自分もまた、
必ずいつか後悔するだろう。
誤魔化しが慢性的に持続した精神などに、
信頼できる拠り所などはないのだ。
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