道徳的自己があるということは、
自己を不完全として何処までも理想を求めることであり、
良心が鋭くなればなるほど、自己を悪と感ずるのである。
西田幾多郎「叡智的世界」より
西田の言う「道徳的な生き方」を
追求しようとする人は少なからず心の奥に潜む
未熟で罪悪感を抱えた自己の姿と向き合います。
自己理想が美しければ美しいほど現在の
ドロドロした自分に悩み苦しむのです。
ただその葛藤によって感性が鋭く磨かれていく。
西田はそう言ってるんですね。
ちなみに以前の僕はこの道徳論を見て
「こんなストイックな生き方は逆に
不自然だ」と否定してたんですが、
今はちょっとだけ違います。
やっ、もちろん全肯定はしてませんよ(笑)
ただ思想的立場で考えると「それ」が
なければ感受性はどんどん萎えてしまうんじゃ
ないかと思うんですよね。
そうなるとただひたすら幼稚で凡庸(かつ一様)
な自己しか形成できないのではないか、と。
自由を謳歌し、自由であることに満足すれば
本質を探ったり新しい潮流を創り出そうなんて
誰も思うわけがない。幸せの反対は不幸ではなく
怠惰や退屈だというのは僕の自論ですわ。
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「悩まずに、楽に生きよう」と言う人に悪意はない。
逆に人を励まし、少しでも楽にしようと思っているでしょう。
ただ僕はその一見害の無さそうな「気弱な善意」に堕落性を見てしまう。
クヨクヨしてでも(悩みから)逃げず、
戦わないといけない時もあるんじゃないの。
水の流れに身を任せ、流れ落ちてしまえば楽だけどね。
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