2017/12/17

イデー、イデア、イデオロギー







ドラクエの呪文みたいなテーマですが(笑)
今日は観念について。


さて思い込みの動物である私たち人間は
一面的な部分を見ただけでものごとを
決めつけてしまいますよね。俗に言う
「固定観念」というやつです。


これは誰もが必ず持っています。
他人の固定観念を批判する自分の中には
また別の固定観念がある。例えるなら
全員が色眼鏡をかけて世界(他者)を見てるんですね。


群盲像をやんとやら
青色であれば「世界は青だ」と信じ、
赤色であれば「赤だ」と疑わない。
私を含め、多くがその観念(色眼鏡)を
通して見ていることに気付きません。
(反面、先入観は気付く)


そんな自分のことすら分かってない
状態で他人をジャッジしているんですが
自分のことさえ知らないのに他人が
分かるわけありません。これが人類となれば尚更そうでしょう。


故に大事なのはその観念をいかに正確に
認識する(疑う)ことだと思ってます。
母親から固定されたしつけ然り、社会通念
道徳然り。それらが全て正しいわけじゃありませんから。


この疑う(問う)ことはポンと正解が
出てくる現代では一番難しいですね。


***


「疑う」とは「とことん自分で考えること」、
それは最終的に信じる(認める)ためにある。


例えばブログでは小林をはじめ影響を
受けた人を紹介していますが、例え人生の
師と言えるような人が言ったことであっても、
また、完璧な理論(のように見えるもの)でも
違和感を感じたのなら単純に信じたりしません。



なぜなら論理の前には感情があるから。
いくら尊く崇高なものでも腑に落ちなければ意味がない。


たしかに理性から派生した論理には
一貫性がありますよ。客観的だと言われれば
誰もが思わず納得してしまうでしょう。


しかし私はその「客観」こそ疑います。
最初から最後まで一貫してブレない
考えのほうがむしろ不自然ではないか、と。


そんな理由から疑うことと信じることは
ものであるように思うのですよ、個人的にね。



「後記」



「夢を叶えるための100の習慣」

「愛される人になるための100の法則」

「幸せでハッピーに生きれる100の言葉」

「感謝の言葉、成功者の名言」


本屋に行けばそういった本が
ズラリと並んでますが、そういうの
もう窮屈でうんざりしてしまいます(笑)


古来の学問とは自分の人生における
経験的事実、つまり実生活を
離れないもの(腑に落ちたもの)だけを
思索しそれを深化させるため場数を踏みました。
分裂を知らず観点を設けない全的な認識です。


反面近代自我の申し子であるインテリたちは
自分たちの経験から離れたものでも理屈で
固めれば真実であると勘違いしてしまったんですね。



今も机上の空論者、たくさんいます。
全てに感謝、地球を救おう、全てはひとつ。みんな仲間だ。


そんな言葉を口にしたり発信するのは
メチャクチャ簡単で楽だけど、実際に
それを日常生活で実践している人はごく僅かですからね。




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