2014/03/17

ヘビの味覚



西洋は必然、普遍、絶対な「理」を
取り扱い、「偶然」を避けてきました。



しかし、以前の日本は逆に、偶然性を
内包したまま肯定し、そこから必然へと向かう
姿勢(状態)だったのです。



たとえば、神社の中心には
鏡こそあるけれど、「御神体」は祀られていません。
中心は鏡があるくらいで何もない空洞なんですね。




なぜなら神社とは、多様な神が「偶然」
泊まりにくる宿であり、我々は本来、
その「偶然来た神」と出逢える可能性を期待し、
参拝していたのでしょう。



今日はそんな所から。








さて、冒頭に書いた「必然性」を
中心とした思想はたくさんあります。




「偶然」を「必然」とするために、
その隙を「理」というパテで
全て埋め、論理武装しているのですが、
目に見える補強をやればやるほど、綻びは出てくるもの。




タレスは「万物の根源は水だ」と
言ってますが、僕も、個人的には真理なんて
「水のようなもの」だと思ってます。



冷やして氷にして掴んでても、
そのうち溶けるんじゃないですかね。
もしくは蒸発して見えなくなるか。




☞ ☞



これは我々の持つ言語や五感覚の限界を
知ることによって、理解できます。




例えば、蛇は「味覚」がほとんど
ない動物だと言われますが、
その蛇に「食べ物にはこんな味があるんだ!
という真理は説明できませんよね。



仮に蛇とコミュニケーションがとれたとしても、
永久に蛇は味覚を理解できないでしょう。
なぜなら、蛇である以上味覚を経験できない。
多分、「甘味」という概念すら、想像できないと思います。



これが「蛇以外になれば」、話は別なんでしょうけど、
俗に言う「頭の良い人間」はそう思わない、思いたくないわけです。



☞☞



見れば現在、「真理」の大半は
理性と理論で作られた諸外国からの輸入です。




六四卦は太極から陰陽、四象、八卦へと
体系化を展開してますが、「当たるも八卦」が正しい。
すごく当たる人もいれば、全然かすりもしない人だっています。



現在、たくさんの真理が生まれているのですが、
それって、食べログと同じ理屈じゃないですかね。



もしそれが本当に「間違いない」ならとっくの昔に
「全員」が同じ結果になってないといけないわけで、
仮にそれが「成功の方法」ならば、グローバルスタンダード、
つまり「世界基準」になってるはず。



だったら世界はすでに理想郷、
ユートピアになってないといけないけど
実際はそうじゃないでしょう。
逆に、成功する人は一握りなわけです。





てなわけで、次回に続きます。


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