2015/02/08

言挙げと独楽(後編)

前回に続き二回目。

あくまでも自己的な考察。







・考察その三







「道徳」とは外律であり、言語化である。

しかし、形のないものを語れば語るほど、真実から離れてしまう。





語るということはモデルを描くということであり、

そのモデルの中に閉じ籠り、閉じ込めること。





よって自律とは「自縄自縛」、

他律とは「他縄他縛」である。





真の自律とは、外部の法律を守ることではなく、

自らの「人格」に背くことのないように、自身を律することである。





客観的で他律的である時点で普遍性はない。

仮言命法となり、独善的。これは異なった原理である。









倫理とは言葉ありきではない、

初めに「感情(情動)ありき」、その基準は心に由る。

(情動は長くなるので割愛)





よって外部の法によって罰を受けるのではない。

自ら定めた法を破ったことに対し、自ら罰を与えるのである。








「罪と恥の意識」、アダムとイブが禁断の実を食べ、

最初に起きた感情である。







そこに他者や社会や道徳やモラルなどは一切関係ない。

自分が自分自身に下すもの、絶対命法だ。





よって自律派生の倫理とは外からは見えない。







☞ ☞



・考察その四





自縄自縛である自律とは、抑圧を伴う。

なぜなら、あり方(根茎)が拒絶しているからだ。







それを解放すれば跳梁跋扈となる場合がある。

なぜなら、そこには「在り方(人格)」の定義が欠如している。





在り方が本能的であれば、お隣の国同様「欲望機械」となる。

欲しければ奪い、邪魔ならば潰し、それを正当化する。







よって、利己的な本能のアクセルを踏ませるのは

未熟な精神性では危険極まりない。

(もちろん、例外もある)







例えばよく「バレないなら浮気をしてもいい」と言う。

では「見つからなければ、万引きしてもいい」のか。







上記の欲望を我慢するのは抑圧と呼べるか。

ここで「ありのまま」を使うのはおかしい。







つまり、それはありのままではなく、

欲望の赴くまま(おもむくまま)である。









そんなものに理性を使って正当化するのであれば、

西洋宗教と同様、ただの空理空論である。





☞ ☞





理性は時として人格を無視する。

赴くままを、ありのままとする。

頭で考えたものは、一貫性がない。







例えば、従業員が所属する企業の

不正現場を目撃したとする。







賞味期限が過ぎている食材を使う、

安全性がないのに合格基準としている、

助成金欲しさに自己都合退職させている etc・・・何でも良い。







これを第三者の立場から判断するならば

当然、「内部告発し、不正を正す」と言うだろう。









外部にいる人間は「理性」によって、一番最適な回答を出す。





しかしそれは空論理想の人格モデルである。

理想は誰もが語れる、しかし現実はそれとは異なる。







もし、それが自分自身に起こったとしたら、

どのように対処するだろうか?









この場合、選択肢としての「行為」は、

見て見ぬふりをするか、内部告発をするか、

それとも直接、当事者へ伝えるかの三者択一である。







まさに、善悪の分かれ目である。

あなたならどうするか。







もし家族を養わないといけない状態ならどうするか?

もし、家のローンがあと20年残っていたらどうするか?

来年係長へ昇進する予定ならどうするか?

結婚式の仲人をしてもらった人がいる部署ならどうするか?







この瞬間、理性が勝てば必ず「見て見ぬふり」をする。










しかし、全人格が働けば、内部告発をするか、直接訴える。







(全てではないが)中国や韓国の体質は

まさにこの「理性」によって欲望が正当化されている。







結果が「とまらない大気汚染」と「腐敗した官僚」である。

儒教(儒学)は「ありのまま」を間違えて教えた。





四徳(仁、義、礼、智)や五常(仁、義、礼、智、信)

は外律であり、理性を縛ることはできない。







☞ ☞





誰もが理性で考え、行動していると思っている。

理性によって自分へ命令を下し、行動できている、と。







しかしそれは思いこみである。

本来は、理性が行動をコントロールしているのだ。









よって、それは行為ではなく、理性。

メカニックに、合理的に、都合良く動いているだけである。







自らの知に自惚れている人間は、悪に陥りやすい。

知識人の中には「科学的」な説得力によって当たり前のことが分からない人が多い。


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