2013/08/19

良品に国境なし



人間の努力は、いつの場合でも
最良の結果を生むとは限らない。


なぜかといえば努力それ自体は、
まったく意志を持たない一つのモーションなのである。


たとえば、いくらモーションがよくても、
必ずしもストライクだとは限らないのである。


投手のコントロールの良さがあって
モーションも生きるのである。




これは本田宗一郎の言葉、
ちょっとしたセリフの端々に、
氏が天才技術者と呼ばれた所以を見て取れる。



この時代は一生懸命が美徳だと尊ばれたが、
宗一郎はただの一生懸命には何も価値がないと、
時代の価値観に迎合しなかった。



それらが価値を持つためには、
正しい理論に基づくことが前提条件だ、と。



今日はそんな天才技術者の小話。



☞ ☞ ☞


高等小学校卒業後、
自動車修理工場のアート商会に
丁稚奉公として入った宗一郎。



6年後、「暖簾分け」を受け、故郷である浜松で独立。
暖簾分けができたのは、宗一郎ただ1人だけだった。



宗一郎は大衆はデザインを自分で考案しないが、
優れたものを理解し選び出す力を持っていると考えた。



故に技術より思想を先行させ、思想によって技術を研磨していったのである。



金をいくら注ぎ込んでも変わらないもの、それが宗一郎の言う思想である。


☞☞



もちろん、それだけでは
ただの孤独な芸術思想になってしまう。



宗一郎はデザインには模倣性と
独創性の二つがあって、その模倣性を
利用したデザインによって流行が生まれると考えた。



個性的なことだけを最優先するデザインでは、
コロコロとデザインを変えるだけのものであって、
それはただの独断だというのだ。



これには全く異論がない。
思想は尖っていいがクリエイティブだけのビジネスは成り立たない。



つまり冒頭でいう「モーションが良くてもストライクにはならない」
ということだ。









そんな宗一郎は創業者の一番大事な仕事は
何かと聞かれた際、
「次の世代に経営の基本をきちんと残す事」とした。



基本というのは在り方、つまり「精神の型」である。
その「型」をきちんと残すとは「マニュアルの構築」ではない。
以前書いた文楽のように、「なぜ」、「何の為に」を
徹底的に浸透させることである。




それが有名な「ワイガヤ」の原型なのだろう。



金なんかなくたって、心が豊かで、誰にも迷惑をかけずに、
好きなことをやっていけたら、これが一番幸せな人生なんだろうな。



俺は若いころから好きなこととなると無我夢中になった。
だって、嫌いなことを無理してやったって仕方がないだろう。



人間「得手に帆あげて」生きるのが一番良いからね。
ただし、俺が好きなことばかりやってこれたのも、
会社でも家庭でもいいパートナーがいたからなんだ。



芸術でも技術でも、いい仕事をするには、
女のことが分かってないとダメなんじゃないかな。



2013/08/13

レーゾン・デートル

こんばんわ、坂口です。
台風の影響で今日は一日オフでした。


幸い、被害はありませんでしたが
他の地域において何事もない事を、願っております。



さて、今日は
共同体論についての回帰的考察です。








共同体組織については古今東西
様々な意見がありますけど、



他者の欲求を強制する近代のシステムには
個人の喪失感による虚しさがあります。




ゲゼルシャフトからゲマインシャフトに
なった、というような共同体の変化ではなく、
各人のアイデンティティが確立できない。



言わば我々が生きて行くために必要な
本質的なものの喪失が起こったわけです。


その本質的なものこそ、個人の
「生きる道の発見」、レーゾン・デートルでしょう。



端的に書けばそれは「かけがえのない存在」
の証明性の不在ということ。



そしてその「かけがいのなさ」とは代替不可能、
そうじゃないですか。



☞ ☞




普通に考えれば、自分は世界に
たった一人しかいません。


別に生物学的なことを並べなくとも、
僕は世界に唯一無二な存在なんですが、



その唯一無二性、というか
その必要性が近代では見いだせない。



近代の必要性とは、間違った恒常性から
派生する偽物であって、



入替え可能、交換可能な存在にしてしまう
暗黙の強制的カテゴライズにすぎません。



システムなのでつい当たり前に感じ
分かりにくいのですが、社会に溢れてますよ。



例えば、僕が病気になったとしましょう、
ちょっと風邪を引いてしまった、と。



この状態ではまだ、体調が悪い僕、
つまり「病体であるいち個人」なんですが、



医療システムの中に組み込まれたら
僕は病院に入ってから、出るまでの間、
いち「患者」となってしまいます。




看護師からも、処方箋を出す人からも
全員から「風邪引いたタイプ」で取り扱われる。



個人名ではなく、何某という「患者」、
これは生徒もそうだし、消費者もそう。
これが近代システムの恒常性です。



つまりシステムに組み込まれた時点で
個人から「操作対象」になってますよね。


「あの患者さんにあの薬を出しといて」と。
一見、当たり前の光景ですが、



「あの車にオイル差しといて」と
なんら変わらないじゃないですか。



これってね、虚しいでしょう。
科学は人を交換可能にしてしまい
寂しいものにしてしまうんですわ。




☞ ☞




現在、多様とか個性を尊重する
流れですが、



多くの人が個性を発揮できない。
なぜなら「すでに患者にされてる状態」で、
唯一無二性を出さないといけないからです。



それは自律的なものでも自己決定的なものでもなく、
さらに今のシステムをさらに発展させ、支援してしまう。



社会は代替可能な個人を求めます。
可能でなければ、社会は機能しないからです。



つまり、今の我々は代替の可能性と
不可能性を同時に重ねた存在であり、




集団的な帰属がなければ守れない
自己同一性は、主体を「代替可能」としています。



道具的存在と、唯一無二の個人。
この二層のバランスの不和こそ、
今のシステムの欠陥であり、



それにより相互理解や絆、冒頭に書いた
「かけがえのなさ」が崩壊しつつあるのかも
しれません。




だから僕は理論で加盟店を
「操作対象」にすることを避ける。




今必要なのは破壊でも、脱却でもない、



言わば常識を疑い「仕切り直し」をする
時期ではないかと思うのです。






2013/08/12

本質は語れず




こんばんわ、坂口です^^
みなさん、七草粥、食べました?



ちなみに僕は生れて数回しか食べてませんが、
普通のお粥はかなり好きです(笑)




さてさて、今日は
ちょっとお堅いテーマになりますが、
興味のある方はご覧ください。






現象の奥には「見えない」が存在(実在)している。
僕はそう思っています




つまり「有るものが見えず」、
逆に「無いものが見える」ということです。



例えば、今使ってるパソコンなんてそう、



パソコンが動いているようですが、
実際動かしているのは、見えない「電気」ですよね。



スマホもそう、動いているのは
バッテリーであって、電気です。



それと同じ様に、我々の身体は実在ではなく、
身体を動かしている「エネルギー」が実在でしょう。



コップの本質はコップの形をした
ガラス(最終的には素粒子)。



つまり、ガラスの形を変えたのが
コップであり、窓であり、花瓶ですよね。




「お煎餅」を砕いたら、
最終的には粉になりますが、



粉々に砕いた煎餅と、
砕く前のお煎餅は別物だと言えません。



それは状態が「移行」しただけなんですから。






どれも同じ




つまり「煎餅」や「花瓶」は、それ自体の
本質ではないということです。



こう書くと「粉とかガラスは
目に見えるだろ」と思うでしょうが、



それをさらに細かくすれば、
最終的には不安定な素粒子になりますよね。



つまり「確定できない状態」になる、と。



「だいじなものは目にみえない」。
星の王子様は、良い事いいましたな(笑)



☞ ☞



こういった本質的実在は、生まれもしなければ
消えて無くなることもありません。



逆を言えば生成する、消滅するものは、
実在しない証拠だと言えるでしょう。




「作り」、「名前」をつけるからこそ、
生成するのであって、同時に消滅する。




生まれてきた以上、やがて死ぬわけです(笑)



☞☞



形式化(現象)はすべて、
この「消滅」の運命から逃れられません。



つまり「有る」と言うのは本質が、
様々な形を現わしているということ。




ここに、世界の意味がある気がしますね。



非の概念についての考察

非についての断片的考察。



アーサー・ケストラーは
ギリシア語のホルス(全体)に
粒子を意味する語尾オン(部分)をつけ、
「ホロン」という概念を提案している。



著書は「ホロン革命 JANUS(ヤヌス)」、
ヤヌスとはギリシャ神の2つの顔をもつ神のこと。



ヤヌスとは、内面と外面を同時に見る事が
出来たことから、機能の両方の性格を持つ存在を指す。



ホロン(ヤヌス)は「純粋な部分」も
「純粋な全体」も存在しているのではなく、


全てが交じり合い、部分と全体を
併せ持った「全体子」となっているというのだ。



なるほど、仏教哲学も部分と全体の
無分別である「不一不二」を説いている。



裏も表も中間もなく、相互の縁起によって
構成されるという概念、まさに「統合知」と言えるだろう。




今日はそんなところから。





歴史を振り返って観れば
我々はこの概念結合ができずにいる。



どこでも対立するものを悪と定義し、
争ってるのは、何も中東あたりに限ったことではない。



社内でも学校でも家庭でも、
規模の差はあれ、似たようなことを
やっているということは、




不和は集団には必ず
存在するものだと言えるだろう。




そこでこの「ホロン」の出番である。
そんな集団の不和を解決する概念ではないだろうか。



ルードヴィヒ・フォン・ベルタランフィの
「一般システム理論」でも触れたが、
生命全ては「開放システム」である。



一方閉鎖型ではなく相互開放型、
これが生命(あるいは社会)を構成しているのだ。



集団のなかの個人は自らの「部分性」のために
自己の「全体性」を放棄しているのだが、
実はその部分は全体である「ヤヌス」なのである。




自意識の追究とは冒頭にある「純粋な部分」、
弥栄よろしくやがて振り戻しが起こるだろうが、



急アクセルの蛇行運転を楽しむ人は
あまり多くないのではないだろうか。
(それを体験というのなら勝手にすればいいけど)




世間は戦う相手じゃない。
かといって、べったりと引っ付くものでもない。



ヤマアラシのジレンマよろしく
ある一定の「距離」さえ保てばいいのだろう。
これが「反」ではなく「非」の概念である。





2013/08/08

善悪過ぎれば・・・・





「度を過ぎた徳は害をなす」
これは伊達家の家法(壁書)の中にあるものです。





仁過ぐれば弱くなる、義過ぐれば 固くなる

礼過ぐればへつらいとなる、智過ぐれば嘘をつき、

信過ぐれば損をする





こういった「分度」は、加減の定義として
度々お伝えしていますが、これがなかなか体現が難しい。





なぜなら経験によって得るものである以上、
知識として頭に入れただけでは分からないから。





僕自身、「人としての正しさ」に対し、
それが独善的なものなのか、ネグリの説く公共善なのか、
未だに分からない場合があります。





絶対的な価値なのか、相対的な価値なのか。
それは抽象度を上げれば上げるほど曖昧になる。



☞☞




上げれば上げた分、良いというものではない。
(スピリチュアルに傾倒すれば、現実逃避してしまうのと同じように)



よって、それが不可知論にならないためには
「根と翼」を同時に持たなくてはいけないのではないでしょうか。




例えば、商人は片手に崇高な理念を持ちながら、
もう片方にはソロバンをはじかないといけないように。




☞ ☞




善悪すぎれば同じ環の中。
人間は善悪二元論を同時に備えた
「境界線(間)」として生まれています。





よって境界線を広げる(超克する)寛容とは、正しい精神と言えますね。