2014/12/16

雅なる場と俗なる場

先月から今月にかけて、
あっという間に時間が過ぎてしまった。



約一か月であちこちお邪魔させて
頂いたからだろう、


広島、富山、新潟、愛知、京都、神奈川、
そして大阪である。


ふと思えば日本全国、
行っていない場所は片手に収まるようになった。



元来、放浪癖があるため
色んな場所に行くことは楽しみなのだが、



それは自分の居場所があってこそ、
外へ向かうのは内の世界が安定しているからこそ、



生活の臭いがある自分の部屋に帰ってくると、
高級なホテルより、やっぱりホッとするものだ。




今日はそんな所から。


☞☞☞




いくら高層ビルを無数に作ったとしても
それだけでは、全く面白みに欠ける。
大阪でも、名古屋でも、東京でも、
シンボリックな建造物があるのだが、
一度見れば飽きてしまうものだ、



我々がそこへ向かいたいと思う動機、
それは「俗的」なものであり、有機的な状態である。



それによって都会の先進的なものがさらに
「活気」を持つ、このコントラストに惹かれるのだろう。



例えば大阪あたりの路地裏を
ちょっと歩けば、途端にリアルな生活が見える。
自由で何も計画されていない、
そんな自然派生的な場所は淫靡な魅力があるのだ。



本能的な俗的魅惑と、理性への憧れ。



それらが混然一体としながら、街は作られている。












チェーン店や設計された施設などは雅、
言わば「計画的に設計された景色」。
雅は俗の対立概念として俗を拒絶する。



その結果「独自の個性」を奪ってしまう。
生活の匂いを消してしまう。




僕はそんな同質的な街は嫌だ。
故にガウディは、それに対抗するのではなく、



なるほど、雅と俗がせめぎ合いながら
同居することで、有機的な「聖なる対象」は生み出される。




そんな内部の統合は誰もが持っている、
僕はそう思う。





場の空気

こんばんわ。unreveの坂口ですo(^▽^)o


現在、。フランチャイジー用のポータルサイトを作っています、現在たくさんあるのですが、比較サイトみたいなものにせず「名水100選」のような厳選したものを作ろうと思ってます。


人生を決定する独立です。
比較するより詳しく紹介したサイトがあれば嬉しいですよね^^



ちなみにサイト名は「HOMMAGE(オマージュ)」トップはこんな感じです↓
あとはどんな文字をいれるか、はたまたスライドにするか。。。。


内容は何を入れるか。
クライアント限定にするか、それとも。。。。



完成が楽しみです


さて、今日は「場」にいついて。
休日にはちと、重たい小話です(いつもか)



お祭りや遊園地に行った人なら分かるでしょうが、人がたくさんいるのを見ても、そんなに疲れませんよね。しかし同じく人が集まっている場所でも昼時のバタバタしたファミレスやエレベータ、満員電車では何だかゲッソリきます。これって多分その時の人の心が作った「場の空気」があるんじゃないか、と思うんです。初対面の人と話す時もそう。話しててとっても疲れる人がいます。それは会話とかじゃなく、空気で疲れちゃんです。


逆に初めてなのに、心地よい雰囲気の人もいます。そんな人とは会話も弾み、時間なんてあっという間に過ぎてしまいますよね。そんな「場の空気」、心理学では社会的知能(ソーシャル・インテリジェンス)と呼ばれていますが、僕は知能や知性のようなインテリ感覚とはちょっと違った捉え方です。



戦時中のイデオロギーは大きな空気であり、この空気感はとても強く働きました。僕らは大きな空気を時に「常識」として片付ける癖があるのです。空気が読めて、流されやすい日本人はなおさらですまた、嫌だけど抵抗できない支配的な空気もありまして、それは言葉ではなく「肌」で感じるもの。場の空気は暗黙知であるのです。


ああせざるを得なかった、そうするより仕方なかった・・・。原発も増税も、そんな空気が作りだしたものかもしれません。前回、意見の曖昧さを説いたのですが、それは空気を読んで答えを出すというものではありません。逆に空気を読まずして自由度を保留することであって、対立概念の把握さえ排除すれば空気に支配されるようなことはないのです。

山本七平や丸山眞男は空気について考えました。日本人が集団で何かを決定するとき、その決定に強く関与するのは、提案の論理性でも、基礎づけの明証性でもなく、その場の「空気」である、と。


なるほど、確かに。空気とは「圧力」にもなれば「緩和」にもなります。狭く、閉ざされた集団内において、空気はまさに絶対的な教義となります。空気は自ら考えることを止めるのです。


山本七平の著書にはこう書かれています。


~言うまでもないが、元来、何かを追求するといった根気のいる持続的・分析的な作業は、空気の醸成で推進・持続・完成できず、空気に支配されず、それから独立し得てはじめて可能なはずである。従って、本当に持続的・分析的追求を行なおうとすれば、空気に拘束されたり、空気の決定に左右されたりすることは障害になるだけである。持続的・分析的追求は、その対象が何であれ、それを自己の通常性に組み込み、追求自体を自己の通常性に化することによって、はじめて拘束を脱して自由発想の確保・持続が可能になる。空気で拘束しておいて追求せよと言うこと、いわば「拘束・追求」を一体化できると考えること自体が一つの矛盾である。これを矛盾と感じない間は、何事に対しても自由な発想に基づく追求は不可能である~


ちなみに僕は空気が読めない(笑)のですが、代わりに「場」を努めて読むようにしています。「場の空気」といいますが、本来読むべきものは「空気」ではなく大局的な「場」だと思うのです。空気は読まなくとも変える事ができます、しかし場は読まないと変える事は難しいと思うのです。


☞ ☞


閑話休題、いつもの悪い癖です。
FCに限らず、空気感と、それを生み出す場の形成はとても重要で。僕はこれを「馴染み」としています。誰でも店内に入って「何かこの店、雰囲気悪いな~」と思った経験はありますよね。


それは店員が出す「空気」が暗いのです。例えマニュアルに沿った敬語を使っても、使う本人に活気や笑声(えごえ)がなければ、その店の雰囲気はすぐに察する事ができます。心が作る空気なんてものはゴマカシが利かないもの。だから明るい空気を作る気持ちが大事です。


また、今まで場を盛り上げるのは宴会の席だけだったのですが、これからの場作りは新しい経営戦略であり、多義的なユピキタスを取り込んだビジネスモデルそのものです。



場はそもそも庭であり、「間」。よってその「場(間)」に集まる為の「対象」が必要です。例えば茶の間にはテレビという共有できる対象と、ちゃぶ台という個人用途がそれぞれ異なるものがあります。テレビを全員で見ながら、ちゃぶ台は勉強机にもなれば、食事する場所にもなるし、話し合いの場所にもなるのです。その対象を作ることでみんなが集い、系が生まれる。やがてそのコミュニケーションがコラボレーションとなり、イノベーションとなるのだと思っています。


その対象が、エゴから離れた「理念」なんですね^^



「楽しい空気を作りたい!」と思った方は
office unreveの公式ホームページ も、ぜひ一緒にご覧ください!



2014/12/12

【初公開】弥栄モデル

こんばんわ、坂口です、
今月もあっという間に半分が
過ぎようとしてますね。







クライアントさんの多くは来年に向けた
計画の骨子を完成し、晴れやかな気持ちで
今年を終えれそうです。









ん?僕ですか?
そうですね・・・・









・・・・f^_^;









☞ ☞ ☞







さて、unreveのFC構築の
根幹となるリゾーム派生、







このブログでは、抽象概念ばかりの
説明でしたので、具体的にイメージ
できない人もいたかと思います。







そこで、今回はこのリゾーム派生を
支える構造理論「弥栄モデル」を
実際に図で説明してみます。









それがこちら↓











上図の「赤と黄色」とは、対立二項。
言わばコインの「裏表」です。







それは「ニコイチ」である以上、
比率の変化こそあれど、一極にはなりません。







コインの表だけ、光だけ、朝だけ、
幸せだけ、女性だけ・・・・には、ならないんですね。







つまり、それが何を意味するか?






「絶対的な一つの表象」は
存在しない(認識できない)ということです。







これが西洋宗教の大きな間違い。
一神教とは、こういった「表だけ」を是とします。







しかし、幸せだけの人生、
強さだけで作られた人間なんて、
(現実では)ありえないわけです。





形而上では存在するかもしれない、
しかし、言語(言挙げ)した時点で
「対象A」には、必ず「NOT A」が生まれます。







故に、「これが絶対正しいんだ!」
という、思想は外部に出すもんじゃない。







証明不可能なものを、いかに
内部に持ち、それを「信じれるか」。
これに尽きます。






故に、「情熱」という、
「あなただけの羅針盤」が必要なんですね。





☞ ☞





現実はこういった内外の二項が交わり、
対立することで、「創造」されると思ってます。







以前、「三十字の理」で説明したように
男性と女性によって、「子」が生まれる、と。







言わば二項の「葛藤」ですから
創造には苦しみがセットなんですね。







釈迦は苦しみから逃れるため、
「中庸・中道」を説いたのですが、







それはこの世界になにも創造
しない、という訳ではない。







これはゲシュタルト、「眺める」ための
メタであり、面思考であり、縁起思想、







そこから「確実性」を作る決断こそ、
「自由(自らに由る)」ではないでしょうか。







☞ ☞







そこで「志向性」の登場です。
unreveはこれを「理念」とか「道」とか言ってます。







それらは目指すべき「月」であり、
容易に手が届く場所にはありません、
そもそも手に触れることはないでしょう。







よって、究めれば、究めるほど、
言葉はシンプルになっていきますが、







その背後には膨大な、膨大な
「葛藤と選択」がらせん状に起きているのです。







ここに目を向けたのが「回帰論」です。
上の図で言えばちょうど
左右対称の「円(まる)」になっていますよね。







これが続けば「8」の整数になり、
コロッと寝かせば「無限大(∞)」になる。







それをさらに繋げればどうなるか?





我々人間を人間たらしめる
DNAの螺旋構造が出てきます。





ちなみにこちら、医療のシンボルである
アスクレピオスの杖。










まるで二匹の蛇が対極の位置を保ち、
一つの「志向性」に向かい、「蛇行」しているようにも見えます。




この中央を突き抜ける「一つの志向性」とは何か?





そういや蛇って不思議なもので、
聖書には度々登場していますね。




こちらの動画を見ても面白いかもしれません(゜゜)









相似律と向かうべき志向性は
世の理かもしれない、と






当時、オタク真っ盛りの僕は
思ってたんですが、







今はちょっとだけ現実的・論理的に
話せますな(笑)




☞ ☞





閑話休題、
我々はこの「志向性」を通常、
意識することができません。







しかし、過去を振り返ってみた時、
絶妙なタイミングに驚く事があるでしょう。





それこそ掴むことのできない
「志向性の袖」ではないでしょうか。







ここを明確にするなんてナンセンス、
形式化なんて、できるもんじゃない。





まるで、その対象を描くのではなく、
輪郭や風景から描き始めるかのようです。







すると驚く事に、自分の目指すべき
志向性がうっすらと見えてくる。
もしかして、これが「中庸」かもしれません。




金や名誉を目的化している時は
まず、見える事はないでしょうが、







日本流の精神は(多分)

この「志向性(道)」を目指した。





これを継承する為に、(たまたま)
僕はFCを構築しています^^





最後はまた抽象的になりましたが、
皆さん、くるっと回帰できましたでしょうか?









もちろん、これだって「絶対」では
なく、「いちモデル」にすぎませんので、あしからず~パー


2014/12/02

馬車馬の理論

こんばんわ、坂口です^^



日本流事業継承、
練成講座の開設に伴い、


今日は、その基礎編の
一部を書いてみようと思います。








僕はFC構築をするだけに限らず、
個別対応、その人にあった方法こそ
一番大事なことだと思っています。



子育てをはじめ、教育と呼ばれるものは、
全てそうなんじゃないでしょうか。



人によっては、スパルタな方法が
最初は必要だ
、と言う人もいるでしょう、


それとは逆に、
いーや、自分が好きなように
やらせるのが一番だ
、という人もいます。



つまり、そのどちらもに「正しさ」が
ある、ということは、



本質はどちらでもあり、
どちらでもない「間」にある。




そこで、相手の相性や適性を
尊重しながら進めていくこととは、
両義的な意味を内包するということでしょう。




以前(本来の日本)では、寺子屋が
この「在り方」で教えてたんですね。









相性とか適性が大事だというと、
多くの人は「甘やかしではないか」と、
思うかもしれません。




なるほど、未熟な相手に合わせる、
ということは、単なる我儘の助長である、と。



もちろん、それも正しい。
故に、だからこそです。



見るべき部分は自我中心でも、
場所(他者)中心でもなく、根っこの部分




つまり、大前提(根幹)に主体的な
「成長意思」があってこそ、
上記のような「相性・適正」が活かせるのであって、




その人の根幹に自分軸が無ければ、
当然、単なる「甘やかし」に陥るでしょう。



青年期は、この自分軸を形成する
段階の人が多いので、内部派生するまで
待たなくてはいけない。



若いころは生きるのに忙しくて、
「意味」を考えるヒマなんてありません。



もちろん、イチロー選手のように
若い時から「意味」に取り着く人もいますが、



そのような人は特別であって、
大半はまず、順番があるのだと思います。



この部分は一般論にするには
ちょっとデリケートな部分なので、




詳しくは講座で・・ということで(笑)




☞ ☞



成長したいという自分軸が
あるならば、それは甘やかしではなく
「最適な支援」となります。



点思考(甘い・厳しい)では
二項対立にしかならず、
正解は決して生まれないのであって、



そこにもう一つの視点を取り入れ、
「面思考」にすることが大事です。



これが内部派生、リゾームであり、
円環超克理論の骨子なんですね。




よく陥りがちな考えとして、
「我慢してやる」とか、
「気にならない心を作る」などがありますが、




これは経験上、無理。
それができりゃ、苦労しません。



無理を自己強制するということは、
「無理強い(むりじい)」ということです。



ガマンとか頑張るという心は、
本人が望んでやる積極的態度であって、
内部派生ではなければ、継続なんてできません。



近代、この国ではこの「無理強い」を
積極的に取り入れてきたんですが、



これは西洋式の合理的な方法であり、
実は、一番楽で簡単で、「間違えやすい」
方法なんですね。




つまり北風と太陽よろしく
外部派生にしようという恣意的な
思惑、これは「自我中心」です。




男性原理の固定理論ですから、
コンサルの多くはこっち側です。



恣意的である以上、理論によって
強固にし、普遍性を持たせようとしますが、



それが万人に通用すると
決め付けた時点でアウト、



それは単なる疑似科学です。



疑似科学である以上、かならず
その枠からはみ出る人が出てきます、
それは本来、正常なことなのです。



故に外部は、まず疑ってかかった方が良い。




もちろん、ここで書いているのも
もれなくそうです(笑)




☞ ☞



さて、上記の方法でやるには、
その人が欲しがる「ご褒美の洗脳」が
必要となります。




お金・恋愛・病気、人間関係など、
あらゆる悩みが解決できる、という



その人が欲しくて欲しくて
たまらない、「ゴール(欲望)」の設定です。



金持ちお父さんしかり、
天国言葉しかり、
自己啓発しかり、宗教しかり。




つまり、その「無理強い」は
「欲しいもの」に繋がる、という
理屈によって、動かされているのです。




だから、頑張っても頑張っても
欲しいものが手に入らない人は、




「もっと頑張らなきゃ」って
思っちゃう。




その結果、「新しい外部」をまた、
キョロキョロと、探し出すのです。




これは、僕の提唱する
自己中心理論とは真逆の性質であって、




単なる「馬車馬の理論」、
ニンジンを追っかけてるだけです。




外部の強制なんて、
結局そんなもんだと思えば、
ずいぶんと楽になりませんか^^?




☞ ☞





現代はストレス社会だと言われますが、
実はその「根幹」には、こういった
「無理強い」が定着しているからなんですね。




外部強制は、あらゆる
歪みを生み出します。


なぜなら、自己の志向性が働かず、
閉じているからです。




真面目な人、成長意欲が高い人ほど、
特にこのバイアスがかかりやすくなりますが、




本来、下地である基軸さえあれば、
相性の配慮によって、柔軟さが生まれるのです。




人を見て、その根を見て、
そこから環境を変える、




円環超克理論的に書けば、
「内の内」は「外」なんです。
��小冊子を見た人は分かりますよね)






故にunreveは「加減」を構築に
取り入れています。

2014/11/30

自己中心でいこう

FCを展開する際において、
一番大事なのはやろうとする意志です。


その為には「人からどう思われるか」、
を克服する必要があります。


もちろん、我々は社会性を持っているので、他人の視線が
全く気にならない人はいません。


つまり「ある程度」は必要であって、
それを完全に消す自分になろうというのもまた、間違っています。


完全主義者や感受性豊かな人ほど
他者の視線や意見が気になるもの。


しかしいつまでも自分を否定し、不足感から
完全なものを目指す道を選ぶのは避けたいものです。


☞ ☞ ☞


さて、中小のフランチャイズ展開とは、同業他社からすれば
少なからず注目を浴び、視線を受けるものです。



応援するという歓迎的な視線ならいいのですが、
今の経済社会は全体主義に近いものである以上、
決して好まれるものだけではないでしょう。



自社の事を一番よく分かっているのが経営者ですから、
そんな他者の視線を感じ、自社のマイナス面に気を取られたりしますが、
先ほど書いたように、弱みにフォーカスし、
それを克服しようとしても完全なものは不可能です。



逆に克服しようと思えば思うほど、
余計に客観的なものが気になってしまいます。



これでは何かをやろうとする前に
神経が参ってしまいますよね。


☞ ☞


ビジネスに限らす、人間にだって長所、短所があります、
長所だけ、という人はこの世界に存在しません。


長所を別の視点で見たら短所に映るもの。
物事には裏と表がある以上、一面だけは取れないのです。


コインの裏を消そうと思っても消えません。
両面を同時に受け入れ、認めなくてはいけない。


しかし、そんな弱さをも認めることは、決して悪い事ではなく、
逆にその人の魅力に繋がるのではないでしょうか。


よく「2:6:2」と言われるように、人の評価は曖昧で多様。
どんなに素晴らしい人でも必ず2割の人からは嫌われると言います。


逆を言えば、そんな自然の摂理があるからこそ、
僕らはその多様性を失わないのです。


間違っていけないのが、騙し欺くことや
支配、独占のようなものは短所ではありません。


それはただの厚顔無恥であって、
商売をやる以前の問題です。


☞ ☞

恰好が悪くとも、デザインが良くなくとも、癖があっても、
前向きに自分流を貫いている人は、魅力的です。


他者へ向けた正当性は時として争いのタネになるけれど、
自己へ向けた正当性は自信や情熱のタネとなる気がします。


2014/11/19

対話による場の形成理論

unreveは対話による「場の形成」を提唱してますが、
それは対話する「言葉の内容」が大事なのではありません。



大事なのはメールや伝達文書や電話ではなく
お互いがその場にいる事で発生する空気感。


こう書くとなんだか非現実的な感じですが
逆ではこれは生まれないのです。
(生まれない、というかネガティブ・フィードバックになる)


例えばネット、距離が離れた相手が
文字だけで空気感が生まれる事は、まずありません。


賛同者なら集まるでしょう、ただそれは各自が持つ
それぞれの価値観と一致しただけのこと。


例えば、この国でもFBによってデモが起きているけれど
それは個の集約ではなく、集団からの派生です。



今日はそんなリゾーム派生「場と対話」について。



ヤン・シュヴァンクマイエルの作品



さて、言語化とはその性質上、どうしても相対、二分されます。



例えばある対象「A」を言葉によって名づけた、とします。
対象は名詞(太郎)でも良いし、形容詞(楽しい)でも何でもいい。



それを名付けた(言語化した)時点で、世界には
必然的に「A」の他に、「NOT A」が生まれます。


「太郎」を名付ければ、それ以外は「太郎ではない」、
「楽しい」は「楽しくない」がセットです。

よって「正しい」を叫べば、必然的に「正しくない(間違ってる)」
が派生し、それが違いとしてではなく「悪」に転じます。



よって自己が正当化されると、その対極には
敵(NOT 自己)がいるのはこの言語世界の原理なのです。



そしてこれこそ、人が対立する根っこであり、核心。
我々は言語から支配されているのです。

☞ ☞

例えば、原理主義は「絶対」を生み出します。
しかし、歴史上それが万人に認められた試しはありません。
理由は上記を見れば明らかです。

この罠に陥らない為には、まず多元的・両義的にすることです。



ざっくりとした分け方では二項対立するだけ、
お金だって「必要」と「不要」に分けたら、おかしな対立となります。

必要だけど、それほど必要ではない。
そんな「最適」の状態は自分しか分かりません。

よってできるだけ多くの状況を想定し、
それら関係性が複雑に結びついている事を、まず知ることです。



そうすると、言葉(言語)というものが
ある種の「ネットワーク形態」を持ちだします。


この状態が、ご存じ「リゾーム派生」です。


その為に様々なニュアンスを用いる


そのネットワークの結節点や揺らぎの部分に、
自分にとって、最適な思考やあり方が見えてきます。



「私はこの部分は賛成だけど、ここは違うな」とか。



それを発見するプロセスが「会話」であって、
それを他者が理解することが「場」の役割なのです。



あるでもない、ないでもない。
白でもない、黒でもない。



当然、最初は朧であり、曖昧模糊としたものです。
ただ、それが圧縮していくと、自然に法則性が出てきます。



これが「大体の志向性」を持つことで
その場にいた全員が「最適な立ち位置」によって
抑圧なく、足並みがそろうこと。




これをunreveでは「自己組織化」と呼びます。


2014/11/17

有と無と道

リゾームと言う全人格的な人間の相互作用の働く場では、
「場の可能性」を孕んでいる。


例えば芸術や文学、宗教などは、象徴や比喩を自然発生させ、
それはかれらの全人格によって生まれる。


反面、カースト的な階級ないし序列の体系とは
安定感こそあるが、維持が目的の為、
法律、政治的構造ではその可能性は薄い。



今の時代に限らず、
現状維持とは後退していると同じ事なのだ。


上司がリスクを負って革新的な事業に向かうのは
ドラマか漫画の世界であって、本来はリスクを回避する傾向にある。



可能性とリスクはコインの裏表であって、
可能性を提案するということは、言わば「リスクを提案する」事だ。


情熱の伴わないトップダウンのリスク、誰も回避したがるだろう。
ボトムアップからでも途中の関門によって、保留されるか、消される運命だ。


保留された水は淀み、腐る。
流動性のない場は、この階層区別とリスク回避が原因だ。


☞ ☞ ☞


一体なぜだろう。
それは前者は、数(量)で人を見ているからだ。
政党のように、「多いか、それとも少ないか」で区別・評価する。


後者は、平等な個人で構成される未組織(非構造)、
かつ相対的に未分化なである。


共同体や仲間集団において、
相互に構成し合い、相互に必要不可欠のものである。


階層派ともいうべき相手から見れば、
リゾームの存在は危険な無政府状態に見える。


それは多分、アンリ・ベルグソンでいう「閉ざされた道徳」のように、
本質的に限定され構造化された排他的集団のもつ規範の体系だからだろう。



オウムはまさに「閉ざされた道徳譜」を持った集団だった。
ただ、そこには教祖をトップとした秩序ある「階層集団」だったのに気付く。


階層派は、規定や法律といったシステム化。
つまり禁止や条件づけの防壁によって、その状態を維持しているのだ。



聖職者とヒッピーの集団はどちらが危険か?
スティーブ・ジョブスはヒッピーであり、
ジハードを正当化するイスラム教徒は聖職者である。



先入的なイメージには答えはない、
我々は本質を認識しなくてはいけない。



☞ ☞ ☞


システム論の本質とは何だろう?
システム論はいわば自己維持を目的論的対象とする機械論という考えだ。
反面、我々は動的な関連の中にあってこそのシステムである。


��仮に)人間を集合論で片付けるならば
分析によって正確かつ、絶対的な組織法則が出来あがるだろうが、
一体、それはどこにあるというのだろう?


つまりはFCに限らず、組織管理システムとは微分方程式、
「論理自体が非論理的」という笑えない話なのだ。



これからの組織論を考える際は、構成する「人」と、
「集合体」について再度認識を変える必要がある。


社会学者であるG・A・ヒラリーは、
「共同体」という言葉の定義を九十四種も再検討した。


そして、人々が共同体に含まれているという概念を超えては、
共同体の性質に関する完全な同意はない、と結論付けている。


リゾームが概念ばかりで、とらえどころがなく
はっきりと固定できない理由はまさにここにある。
それらは中心がない、中空的な構造をしているのだ。



老子はそれを車の車輪に例えている。
車輪を構成するスポークが集まっている中心は穴があり、そこは空所である。


車輪を動かすためには軸を入れる場所が必要で、
また、そこは無でなければ役に立たないのだ、と。


imagesCAA5PPI8.jpg


我々が日常使っているコップもそう、
真ん中に空っぽであるからこそ、中に満たすことができる。


水墨画の余白の間、枯山水の余白の間、
家でいう窓と扉、女性の子宮もそうだろう。



つまり無(空)は、単独で存在するのではなく、
有であるその物事に付き従って、その物事をしっかりと働かせていくという、
離れる事のできない「絶対的相互依存の関係」なのだ。



世の中の物は形あるものから生まれ、
形あるものは形ないものから生まれる、



老子の説く無とは「0」ではない。
あらゆる「1」を作る可能性をもつ「状態」なのだ。


☞ ☞ ☞



リーフ理論では「無(状態)」の概念として
「間・あそび・ゆらぎ」を取り入れている。



よって有である場所に「空間」を作ることで器が出来る、
否、勝手に出来あがる、というべきか。



空間は概念であるが、「強制しない状態」である。
やらざる場をつくるのではない、「やりたくなるような場」を作るのだ。



厳密には立場や役割りではなく、
老子で例えるならタオ(道)の働き。


名の無い「道」、そして名の有る「無と有」。
無は無でなく、無という名が「有る」。


やり方(方法)ではなく、在り方(状態)である。


反面、秩序だけで作ったものは中身がぎっしり詰まった
静的な立方体にすぎない。


そこに何が入ると言うのだろうか?
固定した部分になるしかないのは必然なのだ。


☞ ☞ ☞


労働基準法でいう「休憩1時間・週40時間労働」なんて決まりは
リゾーム化された場所では必要ない。


会議は1時間なんてものもないし、定例・定刻もない。
各々が思い立った時がまさに吉日だ。


このような非構造的な特質は中心が無い、
中心は無であっても、構造上の機能には「無」は絶対に必要なのである。



大手チェーンは手書きポップの活用が少ない、
現場を一番知っている店長の権限は少なく、会議は数字の発表会だ。



そんなチェーン店からは何も生まれる事はない。
中小のFCは逆にチャンスである。



他資本であるFCは(本質的に)リゾームに馴染む。
私はそう思っている。

2014/11/11

見えない秩序

知り合いの方から一冊の本を勧められました、
原広司氏という、建築の方が書いた本のようです。


集落の教え100/彰国社
¥2,625
Amazon.co.jp

これは建築論、というよりも哲学。
まるでレヴィ=ストロースのような切り口です。



読んでいる途中、この本を勧めた理由が分かりました。
僕の構築論を暗喩的に表しているかのようです。



集落が好むのは、不動なるものではない。絶えざる変化であり、展開である



この分野でシビれたのはガウディ以来です^^


☞ ☞ ☞
氏の作品である「ディスクリートな社会」とは
全ての個人が自立し、全ての集団が自由に組み込まれるという、個人と集団が対等である社会。


言わばオーバーレイ、「重ね・合わせ」の世界です。






単一のシステムで社会がコントロールできないならば、
無数の価値観によって、社会は流動していきます。



つまり個人の思想には興味を示さない時代、
全体の批評性が消えつつあるのです。


ただ、それは見えざる秩序によって統御されています、
見えない秩序「ナニカ」がある。


曖昧だけれど、野放図ではない、
そんな、見えない糸のような秩序が全体を覆っているのだ、と。


それがオーバーレイの原則だと言います、
つまり求心的な空間の様相を作りだしているのです。


計算されつくしたデザインは矛盾から秩序を作り、
偶然性や自然発生的なものとなる・・・。



曰く、近代建築がある程度終焉を迎え、
誰も新しいイメージを提示できなかった際、


2つの方向性に分かれたと言います。
一つは今までと変わらない権威的なアーキテクト、
つまり寺院や宮殿のように、作り手が「ハッキリ」しているもの。


もう一つが集落や民家の様な
特定できない共有人格的に作られるアノニマス。


氏はどちらも肯定していますが、
秩序の作り方を後者(アノニマス)に求めたんですね。


うーん、すごい分かります。
建築は同じようなものを作ってはいけません、
という教訓なのかもしれません。


以前書いた、地方のロードサイドが
どこも同じ景観というファスト風土化論を思いだします。


☞ ☞



そこには境界というものが重要になってきます。
単に重ねるだけでなく、空気をも作りなおす。


やはり、場所には力がありますね。
unreveの場の理論にも取り入れさせてもらいます。




ありがとう、Y君。
また良いのあったらよろしくね(笑)


2014/11/10

繋ぐ

「自分のものだ」という所有欲が強ければ
事業の継承は難しい。



だからといって全てを
「あなたのご自由に」とするのも、どうだろう。



全ては借りもの、預かりもの。
次の世代へ、どう繋げて行くか。



この視点が大事だ。


そう思えば、自分はどうすべきか
考えれるようになる。



より良い世界の轍となるために、
何を残し、何を捨てるか、考える。




それだけで、不思議と仕事が面白くなる。


気合い抜いて行こう~

こんにちわ坂口です。
みなさん、肩こりとかありますか^^?


僕は生まれてこのかた肩こりというものを
体験したことがなく、周り(特に女性)から羨ましがられます。


中には「グッさん、あんま悩みなさそうやからね」と、
間接的に「バカは風邪ひかないから」的な意見を頂くのですが、



悩みくらいあるわ、ボケ(・∀・)



というわけで、
今日はそんなリラ~ックスな小話を。









そもそも、僕らは無意識的にも何かしら、
考えたりしているものです。



無意識の思考は1日5万とも6万とも言われます。
ですから、常に力んでいたり、緊張したり、と
過剰な負荷がかかっているんですね。



重力と同様、我々は常に「負荷」がある、
それも自ら進んで、重い方を選んでいるんです。



身体が軽いとか、調子が良い時とかは
この「負荷」が取れた状態なんですね。



よく「羽が生えたようだ」と言いますが、
そうではなく、「もともと羽がある」のです。



☞ ☞



「軽率にならず、良く考えろよ」と言われたり
「気合い入れて行こうぜ!」と言われますが、


これは正しい言葉に見える「負荷」です。
僕もたまに言っちゃうんですけどね(笑)



中には毎日気合い入ってる人もいますが、
そこまでのポテンシャルはありません(笑)



だから基本的に省エネ、
大事なポイントだけ集中します。



例えば、僕のエネルギーが100あるとします、
それが緊張した時点では、すでに50消費した状態です。

そうなると全力である100を出しても
最初の状態と比べると、残りは50しかありません。

逆に緩和して20の力でいるとします。
そうなると全力を出した場合、残りは80。



経験上、対象を深める、もしくは高いパフォーマンスを出す場合
その緩急の差が大きければ大きいほど、高くなります。


舞台の本番や営業活動もそうではないでしょうか。
硬直や緊張をすればするほど、上手くいかないものです。

よって「ここだ!」と思った時、いかに集中できるか、
いかにエネルギーを出せるか。



これが僕なりの理想状態です。


野生の動物をみればそんな感じかも。

気合い抜いて良いと思います。
しかも、タイミングや機を逃さない
「最適な状態」に留まるって、以外に難しいんです。


「よっしゃ、やったるぞ!!」という状態は簡単、
だけど数日ですぐ電池切れしちゃう。



だから「ルンルン」くらいの状態を常に維持する。
これも一つの自己管理だと思います。

また、そんなリラックスが理想状態だからこそ、
それがリソースとして再度使えるようになる。



ビジネス風に書くとそんな感じです。



そんなわけで、
今日もルンルンでお仕事します( ´ ▽ ` )ノ


2014/11/04

キラキラした人生

最近「キラキラ女子」という言葉を
耳にしました、遅いですな(笑)



おしゃれで、かっこよくて、お金も持ってて、
セレブ男性たちとの交流にも積極的・・・
そんなイメージのようです。



なるほど。俗に言う
「スーパーマン」ってやつでしょうな。



ただ、みんなスーパーマンに
なりたいんでしょうか?僕には到底無理です。




そういや、それに合わせてこんな記事も
載ってましたね。



アムウェイにキラキラ・ロハス女子が急増中で新たな危険性を指摘する声




若者の「やりがい」を餌にする企業が
最近目立ちますが、結局は同じことでしょう。



ホスピタリティ・やりがい・キラキラ・ありのまま・・・・


もちろん、それは素敵なことですが、
時として、強迫的な原理になってしまいます。



ポジティブは使い手を選ぶ、と。
そんなわけで、今日は加減の定義と組織論について。










ミエミエ


さて、我々はどうしてもモノゴトを
ポジティブに捉えたがる傾向があります。



先ほどの件にしても、都合良く
使われているにも関わらず、



「やりがい」や「利他の精神」を求め、
別に欲しくもないものを追いかけてしまう。



これが、すごくしんどいわけです。
「綺麗でキラキラ」ってやつは
目的として十分だ、と思いがちですが、
そんなわけありません。



そもそも、過剰な正義や純粋や愛の
行き着く先は、めちゃくちゃ硬直化して、
めちゃくちゃ生きずらい世界だと思いませんか?



それを頭の中だけで作ろうと思えば、
人間離れした漫画のようなモデルさえ生まれます。



そこに我々(弱者)全てを同一性として
回収しようという「強者の意図」、


それにもう、いい加減
気づいたらどうですか、と。



☞ ☞ ☞



世界が矛盾を無限に繰り返す以上、
答えは常に手探り。これはもう、どうしようもないこと。



故に「揺らぎ・遊び」を経験しながら
自分という唯我を、独尊に仕立てるもんだと
「僕は」思ってます。


仮に、ポジティブが絶対的なものになれば、
誰も、それに対して異論を出しません。



正義は正しく、利他の奉仕は絶対価値であり、
愛は地球を救う、と。



そして、いったんそれが定義されてしまうと
我々は考えることを放棄してしまうのです。



しかし、意図的に思考停止させる、ってことは
逆を言えば、誰かが思考して「そうさせている」ってこと。


そんなものを持ちだした、全体化である
ナショナリズムなんて、個人化にすぎない。



そこに代替可能な「キラキラ」を出せば、
代替不可能な「苦しさ」は隠れてしまいます。




その結果、「個人の疑問符」は消えることなく、
頭に棲みつく。



つまり共同体内にいながらも
個人はバラバラのまま、ということ。



それって、一人より
さらに孤独になってしまいませんか。




だから僕はSNSの光だけでなく、
同時に影も見るんです。



☞ ☞



昔流行った(今もか)自己啓発だって
出来ない個人の持つ苦しさや葛藤は
置いてきぼりなわけでしょう、



キラキラできない、けど求める。
やりたくない、けど、やらないと自己が保てない。


まさにアンチノミーが起きてるわけです。
そんなものに人を結び付けるような力はありません。



その反動でエゴイスティックな個人が
「変わらない自分」に価値を見出そうとしてますが、



それは、異端・異質・ありのままという
対極に向かっただけであって、同じ環の中にすぎない。




☞ ☞


本来、こういった経験はめんどくさいし
イライラするし、投げ捨てたいものです。



世間が当たり前だと思われていることに
一つ一つクエスチョンを投げ入れ、


そこから妥協点を探し、自己を変容させる。
この変化のプロセスが「自己中心」ですから。

しかし、そこで掴んだものが
本来の「手前(自前)の考え」であって、



自分のものでもあり、他人のもの、といった
主客未分の「慣習」であり、境界線になるわけです。



それこそ、加減でしょう。
「これ以上やったらダメだな」って感覚で分かる、と。




その素材すら持たずすでにある完成品を
丸ごと受け入れるのが、今の流れではないでしょうか。


なるほど、確かに今の若者は
面倒なことに対し、全く興味を持たないけれど、



何らかの共同価値に帰属していないと
「取り残される」とういことだけは感じているようです。


しかし、そこで夢中で掴んだものが、
ナショナリズムならば、元も子もありませんわ。


☞ ☞


我々が、普通に生きて行くならば、
他者の意見を受け入れ、組み入れないといけない。



これが独立(特に講師業)になると
他者の意見を排除する傾向が高まります。



だって、自分が先生になって
その意見を一方通行で聞かせる仕事ですから、



参加者から「その意見はおかしい」
と言われると「だったら来るな」で片付くわけです。



しかし、組織(共同体)で生活すれば
「その意見はおかしい」なんて日常茶飯事です。



故に、場を形成する必要性を
unreveではお伝えしています。




全員が講師業で飯を食うなんてありえない。
故に、共同体・組織論は経営の永遠のテーマなのです。


2014/11/02

場の論理について

現在の経済下で起きている大きな潮流とは「解体と統合」である。
大手を始め、この流れが加速している。


解体とはリストラだけでなく価値の提供システムの機能解体である。
つまり、新しい価値を提供する為に、外部組織と再構築する事だ。


端的に書けばそれは関係性ともいえる。
関係性のベースとなるのは顧客へ「何を提供するか」が共通言語としてなくてはいけない。
この認識なくして解体も結合も成り立たない。


分散型で機能する組織を作ること、いわゆる相似的なアメーバではないだろうか。
各自が独立した機関として繋がる、それは一枚岩ではなく、何重もの層で構成されているようだ。


この分散型組織にとって重要なことは、外部との調和である。
なぜなら自律分散型は、それ自体では提供する価値に限界がある。


よって従来タイプであるヒエラルキー型の組織ではない。
私は従来とは違うその組織を、リゾーム型と呼んでいる。



これは観念・概念的特質から、定型がない。
よって体系化できないというイメージから理想論だと思われがちだ。



しかし本質はここにある。
今回はこの分散型の集団で成功している例をご紹介しよう。



それは指揮者のいないオーケストラとして有名な
「オルフェウス室内管弦楽団」である。


1972年にアメリカで創設され、「音楽界の奇跡」と呼ばれている。
奇跡と書かれると何だか例外みたいに扱われそうだが(笑)


ただ、この例は組織を運営する手法としても経済界でも注目されている、
楽団の名前を取って「オルフェウス・プロセス」と呼ばれている。


日本にもオルフェスと同じ指揮者がいない楽団がある。
東京アカデミーオーケストラ、「TAO(タオ)」である。



これら2つの楽団の共通点は実に興味深い。
なぜなら私のリゾームと(ほぼ)変わらないプロセスだからだ。



それは「リーダー不在」ではない。
むしろどの組織よりもリーダーが多いのである。



例えば対話、指揮者がいない為、全てを全員で話し合っている。
これは私の言う「対話と共創」である。


当初、タオは発言する人としない人が決まっていたらしい。
自分の演奏を棚に上げて他人に意見することに、ためらう人が多かったそうだ。


納得、実に日本的である。
この空気感による役割と責任の押し付けは日本ならではだ。
船頭は一人で言い、この罪的側面が組織では当たり前であった。



そこでタオは演奏だけでなく、運営も入れた表裏両面のマネジメントをそれぞれが担わないと、
結果は伴わないということを体験的に知ったのだ。



それは「同じ景色が見えているかどうか」、それに尽きる。
例えば全員で絵を描くとしよう。それには全員が全体像(完成図)を知らないと何もできない。


自分の与えられた部分だけ塗っても何を作っているのか分からない。
絵なのか、ただの落書きなのかの区別すら付かないだろう。


そこで対話によって共有する部分を増やしたのだ。
泥臭いが王道なしである。


その結果うまくいったか?と言えば、答えはNOであった。


曲の全体像はわかっていても、テンポやコントラストなどの
方向性は共有できない、それは実際に合わせていく過程で分かったという。



結果、始めにそれぞれが思っていたのと違う絵になったのだ。
このプロセスは私も体験している、実にもどかしいし、正直めんどくさい。
しかしタオのメンバーはそれを「そこが面白い」というのだ。


言わばここが文化と経済の決定的な違いである。
ビジネスに置いて、ここは面白さではなく「リスク」なのだ。



しかし、各自が自立した状態で協働すれば、考え方や意見の違いはつきものだ。
それを曖昧にせず、意見を伝え合うことが大切なのだ。



私はそれを「場の創造」と呼んでいる。
見えないし体系化できない「場と空気」、これをデザインする為、
私は哲学を用いているのだ。




さて、次にオルフェウス・プロセスの定義を見てみよう。
ここでは道徳的な「外律」を用いている。


オルフェウス・プロセスの8原則

(1)その仕事をしている人に権限を持たせる
(2)自己責任を負わせる
(3)役割を明確にする
(4)リーダーシップを固定させない
(5)平等なチームワークを育てる
(6)話の聞き方、話し方を学ぶ
(7)コンセンサスを形成する
(8)職務にひたむきに献身する


批判ではないが、経済学という「手法」で体系化すればこうなってしまう。
「在り方」を「やり方」にしてしまうのだ。



権限・責任・役割・変動(固定しないことから)
そして平等・対話・一致(コンセンサス)献身。


これは内部と外部の混合された状態だというのが分かるだろう。
さらに自立と自律ができないと、机上の空論である。



これを帰納法にはできない、責任と権限と役割が伴う以上、
自由ではないし、無私でもない。


これをどこでも使えるようにシンプルに編集する、
これがunreveの意義であり私が回帰した結論でもある。



私がなぜ、教育だけでなくビジネスにも多様性を追及しているのかは、
本質が多様を前提とした統一、西田氏の言う「絶対矛盾的自己同一」から来ている。


生命物理学、清水博氏の著書「生命知としての場の論理」内には
「場の情報は場所を超越的観点から見たときに、自己の中に生成する情報だ」とされている。


超越と聞けば首をかしげるが、つまり質のことである。
量から質へのシフトなのだ。



ただ、これに異論がある人もいるだろう、
「そんなの、結局仕事ができる少数精鋭の集団じゃないか」と。


つまり全員の能力が平均して高いからこそ、実現するのだと言いたいのだろう。
しかし私はこれに異を唱える、そんな単純なものではない。


能力がバラバラである事は、質の悪いリンゴの集まりではない。
リンゴだけでなく、ブドウやミカンやパイナップルの集まりとして捉えるのだ。


現在の人材マネジメントを見れば成果を出すために特化した「足し算教育」である。
リーダーやエリートの育成にばかり目が行き、成果重視である。


それを否定しない、否定しないが積極的に肯定もしない。
意見がないのではなく、それを編集し、日本に馴染ませるのが正しいのだ。


なぜなら我々日本人の多くは強引なことに弱い。
押し付けや強引さは窮屈に感じてしまい、どこか引いてしまう気持ちがあるだろう。


それはこれが我々の特質だからである。
されたら否定するはずが、現在は肯定的態度になっている。
この矛盾点に気づかなくてはいけない。



松岡氏には積極的な引き算という概念がある。
合理主義者の目から見れば、すぐにでも排除すべきものであるが、
その無駄があることで、モノ・コトとしてのありようが安定性、強靭性をそなえるものという定義である。



車のハンドルの「あそび」のように、引くことで本来導き出したいことをより引き出す。
私はこの意見に大いに賛同する。



当然、「あそび」は行き過ぎれば文字通りの「遊び」となる
映画「釣りバカ日誌」みたいにはいかない(笑)



だからこその編集作業だと思い、
私はsv不要、つまり「指揮者不在」というカリキュラムを作っているのである。



それは日本の美徳である。格差はあるが、差あるものを切り捨てない。
それを社会や集団という組織に組み入れていく、という寛容さがある。



現在それは競争原理の為、格差があらわになっている。
原因は男性原理である体制主義や保守、利己的なヒエラルキー構造だからだ。


ひとごと目線では誰もが「なあなあ主義」となる。
それは無縁社会で起こっている解体のような気がする。



解体と統合について書いてたら、いつものようにまとまらなくなってしまった。
言語化とはそんなものだ(笑)

みんなで孤独、何も共有していない者たちの共同体

最近、アルフォン・リンギス氏の著書、
「何も共有していない者たちの共同体」を読み終えたのですが、



心理学的観点から見た他者との関係性と、
哲学的観点から見た他者との関係性の対比は興味深い予測が生まれます。






はい、完全にオタク的な趣味です(笑)







今日は共同体にある社会対人について。
あくまでも個人的な意見です(。・ω・)ノ゙







マサチューセッツ工科大学の教授で臨床心理学者
Sherry Turkle氏は著書「Alone Together」でこう警告しています。




SNSなどのソーシャルテクノロジーが感情的な危険を犯さずに
人とつながることのできる関係を築く手助けをしてくれているようにみえる。



しかし、そんなのは完全な幻想であり、
実際にはより孤独であり、より精神的なプレッシャーを与えている。



また、自ら物理的で雑多な、混沌とした生活から
抜けだそうとすることによって、私たちは外に出て
新しいことに挑戦してみる姿勢を失ってきている、と。





みんなで一人(孤独)という言葉は
なるほど、的を得ていますね。



「みんなぼっち」ということでしょう。
繋がることで、僕らはますます孤独になる。



ちょっと極端かもしれませんが、
大事なのはその「繋がり方」、まさに方法でしょう。



☞ ☞



昔の血縁、地域縁、社会縁の組み合った共同体が
崩壊と言われずいぶん経ち、社会は現在、対人の社会サービス基盤を渇望しています。



関わり方がますます閉鎖的になると、
さらに加速するでしょう。




結局インターネットでは心の隙間、
人と人との「間」は補完してはくれないようです。



つまりツール(枝)であって、基盤(幹)ではない、と。



☞ ☞



今までは道路やらセクターやらの
産業重視の基盤を作ってばかり。



肝心の「対人基盤」を置き去りにし、
目に見えるインフラばかりに目が行ってました。



共同体のシンボルを所有することで人は必然的に満足するだろう、と。




ただ、家を買えば家庭円満にはなりません。
確かな基盤とは、見えないところから派生するのではないでしょうか。




そもそも「関係性」というものは
タダで安心できるものではなくてはならない。




ツールに目を向けても本質は変わらない、
必要なものはそれとは違う場所にある気がするんですね。





時には煩わしくもあるけれど、
安心できる場所。




この「安心感」はお金では買えないものだと思います。







2014/10/20

大須~

昨日に引き続き、名古屋編。
忙しいと、こんな手抜きブログになります笑





☞ ☞



帰る前に大須に寄りました。



大須と言えば、やはり大須観音。
やっぱり今日もハトの大群(笑)



ラピュタか





お昼ご飯は有名な「橋本」さんへ。


今回はそこまで待たなくてよかった。




橋本さんと言えば「ステーキのひつまぶし」。
これをやってる店は全国で数店しかありません。






食べ方は鰻と同じ。
そのまま、薬味、最後はお茶漬けです。





とにかくお肉がベラボーに美味い。




しかし絵面は汚い(笑)




これ、QBCの通販で売りたいけど、
原価が合わないので見合わせてるとのこと。



納得。しかも焼き方とかシチュエーション
ありきだからなぁ。



まあ、そんなこんなで
腹いっぱいのまま、帰りました。




大須で唯一のお買いもの、黒ぶちメガネ(笑)





来週は京都どすえ~


2014/10/15





さて、ビジネスにおける5S、これは
「整理・整頓・清掃・清潔・しつけ」の頭文字(S)を取ったものです。

この最後にある「しつけ」、
躾と言う言葉は中国から入ってきたものではなく
この国で生まれたもの、いわゆる「国字」だと知ってましたか^^?



躾が「身を美しく」という文字から成るように、
本来「美しいと感じるもの」と思われるでしょうが、
それだけではありません。

しつけは別字で「仕付け」、
つまり「仮縫い」のことでもあるのです。

今回はそんな「しつけ」の小話を・・・・




これは「躾」のほう


最近親のしつけができていない、という話を
よく聞きます。

僕には3人の姪や甥がいるのですが、厳しいですよ~(笑)
年始早々から、しつけましたしね。
(まあ、ほか全員がフォロー役だからこそですが)



躾は仕付け。
本来、それは着物の「型」が崩れないための
仕付け縫いであって、「仮止めする」という概念です。



それは絶対離れてはいけないという、
本縫いではなく、最終的に取り外すものだというのを忘れてはいけません。



最初にあちこちバラバラにならないため


それは私のフランチャイズ構築概念と同様、
やがて離れる型枠であり、守破離の精神にも通じます。


私は今でこそ、しつけを先人の知恵であり
努力の結晶だと感じています。

何年も何十年も、試行錯誤して得た「生きた経験」
これは世間の処世術かもしれません。


それを振る舞いにしたのが「礼儀・礼節」、
これが美しい躾として、今も続いているのです。

☞ ☞


さて、よく作業効率や生産性の向上などのマニュアルを
「しつけ」だと勘違いしている方がいます。


それは犬猫など、ペットに対する「しつけ」であって
教育の概念とは全くかけ離れたものです。


確かにそれをすれば、効率的に仕事をこなし、
生産性も一時的に上がるでしょう。


でも、それを「本縫い」として続けている以上、
何人かが、必ず途中でダウンします、後になってツケは回ってくるのです。


ちなみに、以前私が経験した広告代理店は
朝の2時まで仕事して、朝の7時には出社しないとダメでした。




土日休みと書いていたけど、実際は休みもなく
フラフラな状態を見た上司から「やる気が足りない」と。


今でこそ良い経験ですが、あの時はシンドかったあせる
(それを続けてる上司もスゴイ・・)

他にも社員を使い捨てにするような企業は
過酷な労働を「しつけ」として教育しています。


昨年から対策として求人票に「離職者数」の
掲載義務ができましたが、例えそれをやったとしても、
企業が別枠の求人媒体を使われては意味がありません。



表面上の問題をいくら取り上げても意味がないのです。



☞ ☞ ☞

逆に、仮縫いという概念を忘れなければ
我々は立ち止まることができます。



「なぜできないのか?」を考えなくてはいけないからです。
自立型FCにとって、そこが最も大切なのです。
なぜうまくいかないか?それを全員で考えること。

合理的で画一的なものはとても楽で、便利です。
仕事が出来る人は「あの人が自分の分身だったらいいのに。。。」と少なからず思ってるはず(笑)


「最短・最小で最大の効果を上げる」
これは経営の世界では大変喜ばれるフレーズです。



しかしやり過ぎたそこには「加減」がない、
加減のないものは「あそび」が利かないので「ゆらぎ」が起らない。



ゆらぎは散逸構造から自己組織化へ向かう
ラディカルなファクターである以上、外せないのです。



私の提唱する散逸(自己組織化)構想は、
我々人間の体と同じ、フラクタルです。



毎日24時間、常に健康に気を使ってたら
逆に神経が参ってしまいます。


体内にも悪玉菌がなくはいけないように、
暴飲暴食や睡眠不足など、我々は都度の「毒」を入れる事でバランスがとれるのです。




以上、リゾーム派生FCの「加減・枠・ゆらぎ・あそび・散逸」を
ちょっと砕いて説明してみました^^



さっ、仕事仕事・・・と。




「リゾーム派生がちょっと分かったかも!」という方は
office unreveの公式ホームページも、ぜひ一緒にご覧ください!





2014/10/07

感覚秩序

在り方とは「心」の持ちようである。
それは「心身一如」である日本人にとって馴染みが深かった。


ただその心とは身体的な振る舞いのルールに左右されず、
独自の精神世界を構築している訳ではない。


また、そこを起点とし自己を含む環境を外部から
客観的に把握することというのも無意味である。


このような「外部からの環境把握」を可能とする、
一種のデカルト主義的な認識を、我々はしばしば抱いてしまう。



ただ「我々の心がルールを作った、故にそのルールを認識できる」、
というものではなく逆である。


この「ルール」こそが、心の在り方を促すのだ。



人は考える前に行動し、行動してからでないと理解しなかった。
言わば「理解」とは、行動を助けるパターンといった「環境の反応能力」なのだ。



例えば火を一番最初に触った人間は火の距離感を理解する。
「触ると火傷する」という言語が生まれる以前の反応は、その「パターン」だ。



つまり一義的において経験から学ぶ、ということは
我々の理性的な行動プロセスというよりも、
一般化した実践を伝える「保守的な過程」だといえる。



つまり成功に繋がった過程は始めは知識として形式化しておらず、
ルールを伴った実践の中でのみ、理解され守られるのだ。



精神的なルールとは理性や知性の産物ではなく、
「そのルールに従った者」が他者よりもより上手く成功すると理解された結果、



逆に我々の行動をその「ルール」が支配するようになったのだ。



ハイエクは集団における行為(行動)の規則性(ルール)が、
経験と共に進化すると同時に「理性」も進化すると考えている。
※ここでの進化とは「変化」と同義。



言わばデカルト主義者が説く
「外部環境を支配している法則の支配」という設計・合理主義に反対し、



具体的な行為の規則性(ルール)の進化によって、
我々の行動は自由度を増し、理性もそれに付随すると考えているのだ。


その自生的秩序のベースになっているのが「振る舞いのルール」であり、
また、その体系は外部の法則性の把握でなく「思考錯誤の蓄積」に繋がる。



社会全体にもそれが当てはめられる。
ラディカルな集団のルールは外部にあるのではない。



それはすでに目の前にある。
それが今までの経験を得て蓄積された集合知の結晶なのだ。



よって「理想的な振る舞い」とは各自が合理的に考えた結果ではなく、
むしろ無知な状態から集合知を活用した結果とも言える。



明示的な指示がなくとも、形式化されたマニュアルがなくとも、
我々は迷うことなく適切な行動が取れるのは、この蓄積された「ルール」があるからだ。



ハイエクはこれをカタラクシーと呼んでいる。
それは敵対するのではなく共通の枠組みの中で相互の利益を調整する役割である。



感覚の秩序はこのように形成される。
否、形成されているというべきか。



それを道徳心と呼ぶのか、はたまた倫理観や善意と呼ぶかは様々だが、
この内在した先人たちの思考錯誤を、我々は無意識に活用している。
��神を伴う原始宗教はここではあえて触れない)



だからこそ、古き良き、善良な市民という言葉を
ノスタルジアとしているのだろう。



☞ ☞ ☞



戦時中は自殺率や国内犯罪率が圧倒的に下がる。
これは逆を言えば今の社会システムが「不自然」な証拠でもある。



人工的な秩序はどうしようもなく不自然だ。
区分や階層といった分類によって優劣性や二項対立が生まれ、
数学的、合理性、理性といったものが支配していった。



本質である多様性に人為的な仕切りという秩序をもたらし、
我々人間と自然は、ますます乖離を深めていった。


これでは権力からの解放や自由ではありえない。
むしろ逆に不自由な檻の中にいるようだ。


よりマネジメントを洗練化し、合理的に捉え、
無駄をなくし、支配するという一方通行の理性による秩序。



度々書くが、「我々の心がルールを作った」のではない。



物質世界には必ず限界(臨界)点というものが存在する。
この世界がカオス状態である以上、この現象は避けられない。



自然運動が円環螺旋である反面、
人工的とは対極を交互に繰り返す、振り子運動なのだ。

ビオ・トープ


インターネットは世界中の情報を取り込み、流通させる巨大なプラットフォームである。


それを拠り所としてビオトープやキュレーターが形成され、



そこから接続し、編集されたコンテンツを受け取るエンドユーザーは日々、再生産を繰り返す。


大げさに書くならば新しい連鎖、
生態系の誕生が情報革命だろう。


さて、今回はそんな情報を取りあう「場」、
上記でいう「ビオトープ」の部分についての小話。



☞ ☞ ☞


「場」とは、単に人が集まって作られるものではない。
そこでは「共有知形成」の為に相互の解読作用が行なわれる必要がある。



この世界は十人十色という生易しいものではない、
人数分の世界構成が重なる「70億人70億色」の多世界なのだから。



☞ ☞ ☞



以前、それはイデオロギーを共有する媒体である
「マスメディア」が最大の情報として君臨していた時代に限定されていた。


クローズ的な一方通行によって、
思惑通りに誘導させることができた。


しかし、インターネットが登場した現在、まだまだ玉石混合だが情報はガラス張りの筒抜けになっている。


また、個人がメディアを作り、選ぶ時代と移り変わっているのだ。



故に、プラットフォームはその「概念そのもの」を見直す必要がある。


それを支える根幹への視点転換、
それが本質回帰であり目に見えない地下茎リゾームである。


☞ ☞ ☞


リゾーム構築で重要なことは、こうしたリゾーム(自己組織化)を
偶然の産物として期待することではない。


副作用ではなく作用(主題)として取り上げていくため、新しい場を創造しなくてはいけない。



「対話」は「場」と密接に繋がる。
状態を構成する際、この要素は切り離せないのだ。



☝︎☝︎☝︎



場というコンセプト自体は目新しいものではない。
古代ギリシャでは「トポス」と言われていた。


冒頭のビオトープとはビオ・トポスが変形した言葉、
ギリシャの「命の場所」が語源である。



そんな共同体の場(トポス)が、
それぞれ存在し、グラデーション化されることが理想である。


グラデーション、つまり「合わせ・重ねる」と言う共存の方法だ。




例えば、我々が住む住居の床下はビオトープと言える。
床下である土中は、人間以外の生物達が住む場所として存在し、そこには無数の生物が生態系を行っている。



このように、他の生物は我々の居住空間と棲み分けてきたと言えるだろう。



2014/10/06

エシカルビジネスについて


今日はエシカルビジネスについて。


今までの欲望が生産、拡大するのに対し、
最近は「整理、縮小」へと向かっています。
断捨離しかり、ミニマリストしかり。
多分にそれは過剰な欲望への拒絶でしょう。


最近になって資本主義の限界が見えてきました。
人間にとっての「豊かさ」は物資的充足の最大化ではなかったのです。




当たり前のことですが、我々は充足された
状態からさらに充足を求めることはありません。
例えば満腹な状態で「何か食べたいものは?」
と聞かれたら、誰だってうんざりしますよね。



メディアはもっと欲張りになれ、最上を
目指せと「今の自分が劣等や欠如してる」
ようなイメージを植え付けてますが、
それは成熟期において不自然な宣伝だと言えるでしょう。


豊かさには物心両面が必須、
しかし今は肝心の「心」がない。


心がないから我々は他の種に対しやり過ぎている、と。


そんなことから、数年前から
エシカルビジネスというものが注目されています。



エシカルethical)とは「倫理的」、「道徳上」
という意味だと言われるがそうじゃありません。
そもそも倫理と道徳は似てて非なるもの、意味は全く正反対です。


道徳は他律であるに対し倫理は自律、
つまり倫理は「廊下を走るな」ように
誰かが決めたルールを守るものではなく
各個人が内省した結果である感覚的な
「後ろめたさ」であって、内部から沸き起こるものなんですね。



他律的(外部)な道徳にはこれがありません。
だからコンプライアンスを導入する企業さんが
たくさん増えましたが、不祥事ばかりじゃないですか。


真のエシカル消費は倫理によって実現するということ
長期的に見て有害になるような事や有害だろうと
思われる企業を「自分で見極め」購入しないことで
正しい持続可能性が生まれるんですね。


✍✍


本来、この国ではこうった倫理観を
いちいち説明する必要がありませんでした。
エシカルビジネスなんて名前を付けなくとも
稼ぎと努め当たり前のことだったんです。


それは伝統として息づく美意識の継承だと
個人的には思っています。だからこそ
時代を超えてなお、違和感や不快感を感じるのだ、と。


我々はただ、「それ」を思い出すだけで
十分実現できる。個人的にそう思ってます。



「後記」


ちなみに人格の完成を究極の目的とした
カントにとって、ベンサムの功利主義は最大の標的でした。


カントは功利主義(幸福の最大化)を認めない。
彼に言わせれば大勢の人で構成される市場や
そこでの消費選択は「真の自由ではない」と断言するのです。


「なぜ?僕たちは自由に消費してるのに?」と
思うかもしれません。しかしカントにとっては
その「満たされたいと思う欲望」こそ、
自分で選んでいない理由である、と言うのです。


なぜならそれは、より多くの快楽や少ない苦痛を
得ることが基準となっている以上、倫理性と
決別した世俗的なもの、つまり欲望から来る
対象が与える結果」に従っているに過ぎない、と。


我々がビールを手にする時、それは自由に選択した結果ではありません。


それはただ、「渇きの欲望」に従っているだけなのです。







神の見えざる天秤

坂口です、こんばんわ。


最近、寒暖の差が激しいので
体調を崩してしまう人が多いようですね。


体調管理は気をつけたいところなんですが、
風邪を引くのって、大事なことなんですよ。

実は、風邪とかお腹を下したりすることで、
体の大掃除が起きているんですな。


熱を出し、毒素を出し、
体を治そうとしている、と。


つまり、体のバランスが崩れかけた時、
その平衡を保つために起こるのが風邪や
下痢だったりするんです。



確かに、回復した後の爽快さといったら
それ以前と比べると全然違いますよね。


なるほどな、と思いました。
僕もそろそろ風邪を引かないと(笑)

逆を言えば「風邪を引かない体」とは
丈夫じゃなくて、「風邪すら引けない体」ってこと。



そうなると、正しいバランスを
取り戻すことができず、やがてドカンとした
病気が来るやもしれません。




前置きが長くなりましたが、
今日はリーフ理論についてです。









さて、世界に一つだけの・・・じゃないですが、
今の時代は個性と独自が求められています。



ビジネスでもナンバーワン(差別)ではなく
オンリーワン(独自)になれ、と言います。



確かにそう、しかし独自性とは、
非常に取り扱いが難しいものです。



unreveのリゾーム派生は個店主義による
画一化からの脱却を提唱していますが、

仮に自己表現を花とした場合、
花を咲かせるための環境が土であり、
根の部分である「動機」が必要なわけです。



よって本人に動機がないならば、
主体や独自は、内部から派生することはないでしょう。

ただこれって、全然悪くないんです。



そもそも論で言えば、花を咲かせる
必要性なんて、別にないんですよ。



自然の植物が全部花を咲かせたり、
実をつけているわけじゃないでしょう。



絶対的な価値もなければ
強制するものでもない。


見るべきものはそこではないんです。


☞ ☞


現在、地上の花だけに関心をとらわれて、
肝心の土や、隠れている根を見ていません。



その土とは何か、根とは何か。
そこには必ず、大前提があるはずです。



見えないから見ない、もしくは花だけしか
見たくない、と言うのは個人の自由ですが、



そのうちいやでも見るハメになる。
相補的である以上、必ずそう。



これは個人に関わらず、
あらゆる分野でもそうでしょうな、



たとえば現在、政治は根を隠し、
「経済成長」という全体最善という花を見せてます。


しかし、この国は現状、少子高齢化や
1000兆の借金、格差によってボロボロなわけです。



それは根ではなく、今までのシステムで
「咲いた花」、つまり全体最善の結果なわけでしょう。


じゃあその根はどこか?
それこそ、全体最善に見える
一部利権取得者の「部分」であって、

ここが変わらないと意味がない。
まさに人間の在り方の部分です。


現在、これと同じことをやってるのが、
日本の10倍以上の人口が存在する中国ですが、


一体、そこに何が咲いてるか。
同根による必然の花じゃないですか。



☞ ☞


全体の幸福をデザインすると、
途端に部分が不幸になるのは明らかです。
逆もまたしかり。



確かに、人権や自由など無視した方が
短期的には効率がよろしいでしょう。



それこそ、あっという間にインフラはできる。
一見、綺麗な花が咲いたかに見えます。



ただ、それを維持できるかどうかは、
全く別の所にある。


独断的な目的に全員が納得するわけがない。
それぞれの木が共生しながら、森ができてるんだから。


現在、たくさんのオルタナティブが
生まれていますが、まさに全体へ天秤が傾いた証拠でしょう。


つまり本来のバランスを取り戻すための
揺り戻しが 起こっている、と。




だったら早めに風邪を引いて、
引き始めに治すことを勧めますわ。



鎖国主義

unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます^^


ふむ、今日のテーマは
ちょっと「あうぇー」な感じですな。


まっ、気にせず書いちゃいます。


☞ ☞ ☞


さて、日本人ならほぼ全員が知っている
「鎖国」、一見マイナスなイメージです。


それによってこの国は発展が遅れた、と
今でもそう言う評論家がいますが、それは完全なる誤解です。


そう言っている人達は歴史学を知らないのです、
実際は逆、鎖国をしていたおかげで日本は近代化に成功したのです。


鎖国とは、貿易禁止ではなく「貿易制限」、
つまり、自国の保護が目的なんですな。


「遅れた日本」から「進んだ日本へ」という
スローガンは、維新政者にとっての都合の良い物語であり、


それが今の「TPP」にも使われている。
歴史というものは繰り返される性質を持っています。


実際は4つの口(長崎・対馬・薩摩・松前)を通じて平和に通商されていた。



現在、やれ自由な貿易だの、
開国だのいっているけれど、


見方を変えれば、この国はどんどん
独立単体として生存できなくなってきていると言えます。


コンサルも「成長するため、国内企業は鎖国をやめよ」とか、
坂本竜馬よろしく「夜明けは近いぜよ~」と煽っているのはいいとして、


国そのものが、欧米に都合のいい、
今のグローバル制度に参加する事はおかしい。


百歩譲って、自国でも十分に独立運営できて、
いつでも脱退できる状態であればいいでしょう。



まあ、そんなことしたら
アメリカというジャイアンが許さないでしょうな、
「お前のものは俺の物」ですから。


この国の政治家達はドラえもんにはなれません。




これを風刺画という 笑

独自の文化も、鎖国によって生まれています。
閉鎖することにより、世界から「悪影響」を受けなかったんですね。
(キリスト教を禁止したりとか)



鎖国によって約250年、(色々あったでしょうが)
平和な社会が維持できていました、歴史がそれを物語っています。


この国は自主独立でも問題ないんです。
情報は開かれているので、中国や北朝鮮みたいな国家にはならない。


まあ、輸出とか自給率とか色々課題はありますけどね。



☞ ☞ ☞



本来、この国は桜見て、寿司食って、
お茶を楽しみ、俳句を詠めば満足してた国です。
(ちょっと極端ですけど)



反面欧米は違います。
自分の正義を他人に押し付け、統一させないと気が済まない。


平等を勘違いしているのです。
本当の平等は「お互いの違いを認める事」なのにね。



さらに中国や韓国は日本に追いつき、追い越して
初めて自国のアイデンティティが満たされる国家。


つまり外部を変えて初めて、内部が満足する。
そんな標的にされたらたまりませんわ。



いっそのこと「鎖国するぞ」と
どっかの政治家が言ってくれないかな。


もし、「自給率を上げるぞ!」みたいなマニフェスト出したら
思わず、清き一票を入れちゃいそうです。



いや、入れないな笑


2014/09/23

モノサシと土俵

僕のような小さいコンサル業にせよ、
税理士にせよ会計士にせよ、これからは自分の「土俵」が必要だと思っている。


それは大なり小なり同じ業務(同業者)がいる限り、
「ここが僕の土俵です」というPRが必要になると言う事だ。



それは唯一無二の「世界観」とも言える。



情報だけを売る商売なんてまさに死活問題である、
だって情報なんてものは、やがて共有される運命なのだから。



ひとかどの職人、いわばプロフェッショナルは全員がそれぞれ
なにかしらの「世界」を作っている気がする。



その世界の王はまさに自分であり、てっぺんにいると言う事だ。
世界の規模は様々だがそれは関係ない、問題は世界を「作っている」と言う事だ。



それは自分の「モノサシ」を手に入れる事である。



それぞれの世界を作ったプロフェッショナル達は
誰か他人の土俵に足を踏み入れる事はないし、他人をその土俵に入れようとはしない。



その「テリトリー」が明確にあって、
自分でそれを見つけられた人だけが、これから生き残って行く気がする。



それを見つけられないと、一時的に脚光を浴びる事はあるけれど、
いつかは消えゆく運命なのかもしれない。



コネもカネも信用も、2代目のように基盤もない僕の中には、
そんな緊張感がいつもある。



☞ ☞ ☞


人生にせよ、経営にせよ、よく「登山」と例えられるが
僕は今の仕事を「麓から登っていつか頂上へ・・・」とは思っていない。



すでに頂上にいるのであって、
その山に誰も登ってこれないように強固にする。それだけである。



とても小さなものだが、僕には「世界=モノサシ」があって、頂上にいる。
今はそれで十分だと思っている。



よって、仕事としての「構築支援業」では歩み寄るつもりだけれど、
「世界観」の部分については他人に受け入れられるよう、こっちから歩み寄るつもりは一切ない。



仏教では「自分のモノサシで人を裁くな」と言われる、
それには100%同感だ、しかし自分の中には確固たる「モノサシ」は必要である。



いけないのは自分のモノサシを使って「他人の世界を測る事」であって、
自分のモノサシを持ってはいけないのではない。



逆にそれがないと他人のモノサシや
世間のモノサシで測られる運命になる。



つまりモノサシは「自分仕様」と「世間仕様」の2つが必要なのだ。



僕は自己中心的に作られた世界でやっているから
良くも悪くも理解されない場合が多い。



しかし自分の世界を構築した相手とは、とてもスムーズに事が運ぶ。
また、そういった人が僕を一番上手に扱ってくれる。



☞ ☞ ☞


「料理の極意は火と味の加減だ」と言われている、
僕の世界観の一側面が、この「加減の定義」である。



加減は体系化できないので科学的ではないし、経済的でもない。
だからコンサルとしては完全な異端者である。



一般的なコンサルとは、欧米的な論理化と体系化による視覚化である。
僕の場合、目に見えない部分を感覚で掴むという「概念化」である。



リゾームは「積極的な概念化」である以上、これ抜きでは何もできない。
よって簡潔に説明することもできないし、そもそも言葉では伝えられない。



ただ言える事は見えない暗黙知こそが本質、という事である。
見えないといえば「センス」、これに近いかもしれない。



センスは生まれ持った才能である。
努力した結果得る事ができるようなものではない、
例えるなら「条件反射」や「直感」のようなものだ。



現役の長島選手が「来たボールをひっぱたくだけです」と言ったように、
本来それは分析もできなければ体系化もできない。



世界観が明確な人は体系化を二の次とする。
なぜなら本質はその裏側に隠れた部分だと思っているからだ。



その見えないものを、僕は「空間ごと」えぐり取とうとしている。
仰々しい言い方だが、端的に書けばそうなんだろう。



そんな手法だから多くからは敬遠される。
安心感を与えるシンボル(根拠)なんて持ってないから。



もちろんそれを作れと言えば作れる、
プロポーザルのような、分厚いあのタイプだ。



しかし蓋を開けてみれば全く使い物にならない。
そんなもの、結果が出て初めて意味を持つ「後出しジャンケン」にすぎない。




こんな風に考えているから「不思議なヤツ」だと言われるんだろうなぁ(笑)
ただ自分の土俵がある以上、そこを降りる気もないし、他人の土俵に上がる気もしない。



ただあと3年、40で結果がでなければ潔く辞めようと思っている。
ここでいう「結果」はあえて書かないが、たぶん不可能ではない。



3年後ってことは起業してまる6年、
6年やって届かなければ、それは僕に才能がなかった、と諦めもつくものだ。
才能がないのに「好きだから」と言う理由でやるのだけは避けたい。

2014/09/22

飼い慣らされた思考とプリコラージュ論



人類学という分野から構造主義を広めた
レヴィ・ストロース氏の「野生の思考」に
書かれているブリコラージュ論。それは
抽象的概念や専門用語などを使わずに
具体性、すなわち色、音、感情や感覚に訴えるものを対象とします。


知性の奥に潜む野生の思考構造、
氏は我々の揺らぐ感性に注目したんですね。


野生の思考/みすず書房

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野生と書くと語弊がありそうですが
我々はこういったことを日常経験しています。
例えばレシピに沿って作る料理ではなく、
冷蔵庫の中のあり合わせで作ることもブリコラージュです。


そんな即席、即興性は理論や設計を
基軸としたエンジニアとは対照的ですね。
一見無価値、無意味なものを「直感で」拾い上げ、
その寄せ集めで一つの「意味」を作り出すのです。


なるほど。多様な対象を差別(区別)する
ことなく「巻込む(統合)」と。プライマルな
全体観がなければこの思考はできないでしょう。
なんだか野蛮で知性のない、まるでジャングルに
住む原住民的な本能のようですがそれは個人の
経験を超えた非時間的な直接表現なのかもしれませんね。



☞ ☞


近代、飼育された思考(栽培された思考)が
現在の社会を動かしてきました。マス時代の
「マーケティング」や「ブランディング」などは
全てこの「飼いならされた思考」の産物でしょう。



しかしそれは「だれかの」設計者によって
植え付けられたもの。「飼育された思考」が
完成されればもはや異論が異論でなくなってしまい、
本人に無許可で行動や思考の「パターン」を頑強に
作り上げてしまいます。



私たちが思い込みによって排除していることは
たくさんあるということ。




自分の否定的な考えや選択肢を「まず疑うこと」が大事ですね。



「後記」


村上春樹氏の著書「ねむり」では
近代社会の中で制度化され、飼い馴らされ
劣化した「ねむり」をテーマにしています。
短編ながら「制度」を実にうまく表現してます。


(ネタバレになるんですが)本書の中の女性は
制度という檻から出る手段として17日間眠りませんでした。
結婚した事で眠らせていた「本音の自分」を取り戻す為、
つまり目覚める為に眠らなかったのでしょう。


睡眠を拒否するとは死を拒否すること。
ある意味現実逃避です。しかし彼女は
パターン化され劣化していく人生に対し
抵抗を必死に抵抗したのです。





2014/09/15

双六人生

こんばんわ、unreve坂口です。
4月に入りましたね。


学年が上がる人、卒業・入学する人。
社会人になる人、ならない人、それぞれだと思います。


ちなみに僕は18で社会人になったので、今年でもう20年。
早いものです(;^_^A
さて、学生さんなら志望校(企業)に合格(就職)できた、
会社員の場合なら、目指す役職になれれば成功と思いがちですが、


人生は双六(すごろく)ではありません。
生きている限り「あがり」なんてない、そうは思いませんか。



例えば大手企業で部長に昇進すれば
成功者のように見えますが、実際はどうでしょう。


生き馬の目を抜くような肩書き競争を勝ち抜いたとしても
自分がやりたい事が何一つできないのであれば、それは成功とは呼べません。


逆を言えば、例え小さくとも自分のやりたい事が
できている時点で、それは成功と呼べるのではないでしょうか。


世の中に不幸な成功者はたくさんいます。
つまり、成功とは主観と客観で大きく異なるのです。


☞ ☞

最近、天職という言葉をよく聞きます。
自由に好きな事をやれる、それが世間の言う天職かもしれません。

しかし、いざ「あなたのご自由に」と言われれば、
何をしてよいのやらさっぱり分からないのではないでしょうか。


かえってそれが、悩みになる方もいると思います。
今の仕事は合っているのか、これでいいのかさえ、よくわからない。


そんな事から「自分探し」が一時期流行しましたが、
どこかに「本当の自分」がいるのではありません。
自分とは探すものではなく気付くものだからです。

それと同じように、「天職探し」というのも
間違えば、「職業」「職種」に限られたものになってしまいます。


「天職を見つける」=「どの職業、どの職種がいいか」
というように、既存の選択肢を探すことだけに夢中になってしまうのです。


天職というのは、職業・職種ではありません。
自分が何をすることが楽しいのかを理解し、それを活かす事。


それがやがて天職と呼ぶに値するのではないでしょうか。


その為には、自分が何をすることが楽しいのかを
まず理解する事から始まります。



あなたは何をやっている時が楽しいと思いますか、
何をしている時が一番、幸せですか。



そこにヒントが隠されていると思いますよ。


2014/09/09

魅力と魔力



今宵はスーパームーンだそうな。




月はいつの時代も神秘的・美術的、
そして呪術的なシンボルであった。



いつの日か人類は月面に降り立つだろう、
その時、永続的であった月の神秘性は失われてしまうのだろうか。



今日はそんな小話でも。



人類が永遠に続くのではないとしたら/新潮社
¥2,484
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最近、上記の本をパラパラと読んでみた。


地球の有限性に対し、経済は無限性を前提にしている、
といった所から本題は入っている。


(ある意味)我々の世界は無限の可能性世界ではあるが、
住んでいる場所は限りがある、これには批判はないだろう。



マルチでもネズミでもなんでもそうだが、
西洋的なビジネスの前提には「無限∞」がある。


枯渇しようとしても、外部を内に取り込むことで、
さらなる発展飛躍となる、これがあちら側の言い分である。


なるほど、彼らからすれば願望は良き事であり、
自然は永遠に豊かであって、尽きる事はない、と。


多分、そう思いたいのだ。



そんな無限性は魅力的であり、魔力的でもある。



まるで月のようにその姿を変える。











もちろん、誰だって我慢はしたくない。
第一、我慢する生活はちっとも楽しくない。



それよりも楽しくダンスを踊ろうじゃないか、
例えそれが沈みゆく船中だとしても。



今までは、そんな楽観的原理でやってきたのだが、
それがただの願望だったと気付くより先に、
アメリカの経済は歪に膨れ上がり
借金は、すでに1.5京円を超えてしまっていた。



中国の中心部はもはや人が住めない状態となっている。
日本でもバブルは弾け飛んだ。



人類は、自力ではどうすることもできない所に
足を踏み入れてしまっているじゃないか。



それでも経済はリミッター解除を勧める。




「もっともっと!」、「まだまだ!」





☞ ☞



閑話休題
この本のテーマは「有限性」と人間の「欲望」の
積極的な肯定であり、哲学的な考察でもある。



よって様々な哲学者が登場する。
ホッブスにジョルジョ・アガンベン、見田宗介、


ヤスパースに吉本隆明に中沢新一に
アリストテレスまでと、その幅は広い。
(吉本隆明は個人的に好きじゃない)



贈与論が出てくる、軸の時代が出てくる。
自我から自己へと、個人のライフスタイルを変える
仏教的なものまで感じる。



なるほど、これはシステム云々ではなく
精神革命が著者のテーマかもしれない。



内容が複雑化するのも当然だろう。
言葉に出すため、悪戦苦闘しているのが伝わってくる。



☞ ☞



多分に、今が大転換の時代だからこそ、
我々は未確定から確定へと作り上げている最中なのだろう。



今日の満月はそんな我々の必死の変化を
気にも留めないんだろうな(笑)




2014/09/08

マニュアルパンチ

こんばんわ(^O^)/
unreveの坂口です。


年末から今年に入ってすでに成果報酬の案件が
5件、ツールが3件、プロジェクト支援が1件。
あと待ちが2件;;;;スイマセン。


さすがに頭から煙が出てきました
煙というよりも狼煙です・・・・・(x_x;)



助けてクマモン


ただ、「経営者と同じように考え、
同じ気持ちで支援する」がunreveの選ばれる理由なので、
手を抜かずに行きまっせo(^▽^)o


※連絡や対応が遅れる場合もありますので、
各クライアント様よしなに・・・・あせる



☞ ☞ ☞

さて、今日はマニュアルについての小話です^^




フランチャイズだけに限らず、
社会全体に「マニュアル」が横行しています。


「マニュアル」と「型」は似てて非なるもの、
型は主体性を伴いますが、マニュアルにはそれがありません。


確かに、マニュアル通りにやれば
責任を取る必要はありません。


上からしてみれば「言い訳」にもなります、
マニュアル通りにやっていた、ちゃんとマニュアルに従った・・・etc



これはある意味「思考の放棄」であって、
マニュアル管理社会がこのまま進んでしまえば、
我々の仕事の概念は機械と同じようになってしまいます。



例えば飲食店で「この料理、ちょっと薄味じゃない?」と、
お客さまから言われたとします。


そこで「いや、私達はマニュアル通りにやってますから
と言われたら場合、どう思うでしょうか。


僕が客ならまず耳を疑います。
多分、二度と足を運ぶ事はないでしょう
(もちろん、かなり薄味だったと思った場合ですよ)

☞ ☞ ☞


当然の事ですが、顧客から「味が薄い」と言われたら
まず全員で確かめますよね。


そして本当に薄いと感じたら顧客にお詫びし、
今後、分量を多くするはずです。
決して「こっちはマニュアル通りに~」とは言えない。


「マニュアル通りに」を正当化してしまっては
間違いなく、フランチャイズでは成功できません、
他の仕事でもそうですよね。



現在、そんな中途半端なシステムのせいで
本来の接客である「ケースバイケース」」ができていません。


接客がある業種に「お客様窓口」という部署は不要です。
本来窓口は現場であって、その場で解決しないと意味がありません。


譲歩して黙らせるなんてことをやっているから
鬱憤が晴れず、ネットで苦情を出しているのです。


☞ ☞ ☞


もちろん、中にはモンスタークレーマーもいます。
そんな人を相手にしては、従業員の身が持ちません。







鶏が先か卵が先かを言いだすなんてナンセンス、
大事なのは自ら判断できる力です。



接客とは文字通り「顧客に接する」という意味であり、
顧客の意図を判断し、決定すると言う事、



自分で判断するには当然「モラル」が必要ですし
基本的な「型枠」がないといけません。



言うまでもなく、その型とは暗黙知。
「形式・マニュアル主義」ではないのです。



自立と自律は時代のキーワードですよ(^O^)/




「最近の教育、押しつけばかりかも・・・」という方は
office unreveの公式ホームページ から、ぜひご連絡ください!


2014/08/21

情報に変化をつける

unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます^^


現在、広告の反応率は下がる一方ですね。
せっかく高額な宣伝費を使っても回収できていません。


FC展開や代理店募集でも、数百万の予算をかけた結果、
問い合わせ0、という話はよく聞きます。


そこで今日はリゾーム派生の「拍子」についての小話でも。


☞ ☞ ☞

さて、どんな有名店でも、メディアに取り上げられたお店でも、
CMをバンバン売っても奇抜な看板を出しても、


今の時代はすぐに忘れてしまいます。
これは自分を消費者側に置き換えれば分かりますよね。


ドラッガー著書「ネクストソサエティ」で説く
新しい社会とは、組織から個人の時代だと言われます。


それは知識労働者が生み出す生産が、そのまま直接
企業の生産性につながるようになり、


知識の価値(知価)が企業の新しい資本となるのだ、と。
これは概ね外れていません。


情報量が膨大になって忘れやすくなったと書きましたが、
これは情報量から情報価値(量から質)へ、


そして固定から流動化しているものに
人は注目している、ということでしょう。


☞ ☞ ☞
そもそも人の認識(知覚)とは
固定しているものをあえて認識しようとは思いません。



例えば、彼女が髪を切ったりイメチェンをすれば
鈍い男性陣でも、その変化は分かります(笑)


しかし彼女のほくろの位置を見て
「あっ、ここにほくろがあるんだ」とは思いません。



企業の情報発信も同じです。
いつも通る道にある看板を見て毎回、
「あっ、ここに看板がある」なんて思いませんよね。



つまり情報が増えれば増えるほど、
固定した情報は無視されるのです。


広告宣伝にお金をかけても、やがて一部となる。
デジタルサイネージにせよ、屋外看板にせよ、HPにせよ、
複数回振り返す同一情報は、今後反応しないのです。


大手はマネジメントによって統制・管理しすぎています。
だから中小の「個の発信」が出来ません。


ここが大手が手の届かない「隙」なのです。
また、その隙は組織構造上、埋められません。


☞ ☞ ☞
形式化された自社、自店の味のこだわりだけを発信しても
消費者からすれば、その違いが分かりません。



大手のように、投資回収期間や収益モデルだけ示しても
結局は数字(損得)だけで判断されてしまいます。



ブログ、HP、その他SNSなど、媒体は何でも良いです。
あくまでもそれは手段、大事なのはその内容と流動化です。



何も書かない、何も言わないと言う人もいるでしょうが、
例えば会社の中にそんな人がいたらどう思うでしょう。



「一体何考えてるんだろう、この人・・」と思いますよね。
そこからコンタクトを取ろうとは思わないはずです。


商品の情報発信だけでは、身長や体重や
持ってる資格だけを話しているようなものです。


自分の事を話す、個人を発信する。
「こんな人なんだ」と思えば、ネットであれ距離は少なからず縮まります。



絵に描いた餅ではない、あなたの想いを発信しましょう^^



最後までお読み下さってありがとうございます。
この話が少しでもお役に立てれば幸いです。


2014/08/04

窓際のジッドちゃん

ども、unreveのグッさんです。





今日夢の中で「ジッド」という言葉が出てきまして(笑)

アンドレ・ジッドの作品を読んだのはずいぶん昔、あまり記憶になかったんですが・・・( ̄_ ̄ i)???





まあ、これも記事にするのは面白いと思ったので

勝手に書いてみます(いつものことです、スイマセン)



さて、読んだ記憶のあるのは、代表的な「狭き門」とか「法王庁の抜け穴」とか「贋金つくり」ですが、古本屋に全部売っぱらったんで、思いだしても「無償の行為は・・・」しか思い浮かばない(笑)





ただ、ジッドは「自分が自分である権利」というのにかなりこだわっていたような。



若い頃のジッドは、結構なナルシストで、

自分で日記を、それを観察することに夢中になってたんですよね。





つまり「自らを読む」という、語り手でもあり、受け手でもあった。

まるで最近のグッさんのやってる事みたいです( ̄∇ ̄+)レベルハヒクイヨ





また、ジッドがしきりに言ったのは「共感」という自分と他人の共存の在り方。

同じものを共に見る事ができれば人は理解しあう事ができる」と言ってます。

(だいぶ切迫した、ある種の強迫観念に近いのですが・・・)



共感とは言葉だけが一人歩きしてますが、

集団によってはちょっとずれてます。





その「ズレ」の部分を僕なりに推測してみます。

あくまでも個人的な意見なので盲信なく、です(・ω・)b





さて、僕らは共同体の共通感覚(空気)を読みながら

それに付随するように言葉を使用する、という習慣があります。





だから、その枠を超えた評価ができなかったりします。

言ってみれば「村社会」の共同性です。



会社というのも一つの「枠」として存在してますし、

全てのコミュニティはこういった「見えないけれど制限された枠」がある。



枠に自分の価値観をはめ込んでみても、

ネジ穴に針を入れるようなもんで、ピッタリとは固定しません。



そもそも人の価値観っていうのは簡単に言えば「自分の好き嫌い」であって

長い人生を生きてく中での「これは好き~」と「これ嫌~い」の取得選択の結果生まれたものです。





一人一人が違う「枠型」を持っているので

共感とは言ってみればその「枠型」を理解しないと始まらない。



そう言った人と違った考え方、見方を理解しなくてよい「コミュニティ内での共感」、

そんな気がします。





日本人の意思伝達とは、分かってくれる人だけの「限定会話の成立」をコミュニケーションと感じているのではないでしょか?





やりとりが下手なのは政治家の外交をみれば明らかなんですが、 協調なのか従順なのか分からない感じです。





協調=全てが同じ、じゃないですよ、だって画一化って人間性の欠如ですから。
逆にそんなのが協調なら、集団に属していても心は孤独です。



また、共感とは心の動きであり、相手の対象全てに共感はできません。







例えばグッさんは食べるのが大好きです。

デパ地下のお惣菜なんか見るとワクワクします( ̄∇ ̄+)テラヤバス





「ここの●○が美味しいんだよ」と友人に伝えるとします、しかしその友人は以前食べてあまり美味しくなかった。





「そうかな?そんなに美味しくないと思うけど・・・」と言った場合、

僕は自分が好きだから好みとして伝えてるですが、中にはそこで「なんで?」と言う人がいます。





「そんな訳はない、ここの●○はこんな味付けでこんなに新鮮でこんなに・・・・」と、





それが美味しい(正しい)と言う事を相手に認めさせるのが基準の会話です。



それがエスカレートすると同じものが好きな人を集め、多数派となったりします。





何が言いたいかというと、自分の気持ちが相手に伝わらない事への悩みの原因が、自分の「美味しい」に対する判断が、ただの好き嫌いなだけなのに「全ての人が認める事実」じゃないのが納得できないからです。



「全員が同じ判断をする訳がない」という基本原則が村社会の日本には欠如しています。

これが心に根付いていないから他人を認める事が難しいんです。





結果、価値観の違う人を排除するという方法や、多数決=民主主義みたいな勘違いが起きます。





右へならい従うか、真逆の位置として反対・批判者になるか、

ずいぶん極端な選択が多く、受容の幅が小さいままです。





僕はよく「自分中心で行こう、小さな自分の価値基準を大事にしよう」と言ってますが、

内部と外部の違いを理解していないとさっきの言葉が「言ってる事が違うじゃねーか」になります。





寛大さは美徳です。「周りに我慢できない人は、だいたい自分にも我慢できない人だよ」とどっかの本に書いてましたが、僕もそう思います。





まとめると異常な画一化、非個性化が幸福だというのは、比較対象を奪い、幸福だと信じこませられているだけで、それは孤独から生まれたコミュニティの帰属に対する一時的な欲求なだけです。





ここでの比較は「個性の比較」であって、比較から来る競争原理ではないです

上記の様な幸福が、希望と信頼と「無知」によって作られているという事実をジッドは批判したような気がします。





ここまで書いても、なんで夢にジッドがでてきたのか皆目見当がつきません(笑)

もしかしたらシド・ビシャス・・・・なわけないですね。





取りとめのないテーマでしたね(本当に)

ではでは、また次回。



Bless youアップ


2014/07/14

陰陽の役割を知る

「形而上のもの、これを道と謂い、形而下のもの、これを器と謂う」
これは老子の道徳経である。


形而上とは普遍であり無形である。
近代は、形ある物によって無形である道を実現しようとする。
つまり科学は形式主義である。


道を知らぬものは(非道・外道・邪道)は
今でも使われている言語だ。



なるほど、現代は非道・邪道・外道の世界、
それを自己正当化する、自我の暴走世界である。


近代技術では精神を救えない。
近代医療で肉体を治す事はできるが、魂は救済できない。


科学で心の病は治せない。
技術で人の心は動かない。


そんな当たり前のことを忘れている昨今、
今回はそんな小話。



☞ ☞ ☞


無形である道とは、「無い」のではない。
道とは形へと「変化する以前」のものである。



そしてその変化には、普遍的な法則があるのだ。
例えば、春夏秋冬は必ず起こる。



つまりすべてのものは変化するが、
その「変化そのものにある普遍の法則」が隠れているのだ。




例えば季節には役目がある。
春や夏には植物は盛んに成長する「陽」の季節だが、
秋と冬は枯れる「陰」の季節である。



その陰陽の季節が互いに呼応し合い、
活かし合うことで、持続性を保っている。




これを継ぐ者は善なり、これを成す者は性なり。
仁者はこれを見てこれを仁と謂い、
知者はこれを見てこれを知と謂い、
百姓は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮し。




上記は仁者や知者(原理を知る者)は
この陰陽に善悪を付けず、農家の人はこの
道理を日々の生活の中で実践し、無意識に感じていると言う意味だ。



道を知る者はすなわち道理(原理)を知るもの、
本質を見る目を養うとは、この見えない道理を知ることである。



☞ ☞ ☞



やがてそれは形となり目に見える「器」になる。



器とは、我々の身体によって現れる行動や言葉であり、
このような「器」を通し、我々は「道」を学ぶ。



現在、「幸せ、楽しい、楽、便利」と
陰陽の「陽」ばかり欲しがっているが、



それは原理を知らない証拠でもある。
私だって寒い日は嫌だが「冬が無くなればいいのに」とは思った事が無い。



つまり陰の側面を「どう感じるか」が問題なのだ。


2014/07/13

リゾーム構造基本講座③

こんばんわ、unreveの坂口ですo(^▽^)o

現在、広島お好み焼きを全国に広げているのですが、
クライアント様かこんな記事の切り抜きを頂きました。



なんと世界進出目



良いですね、実に良い。
今のグローバリズムとは違う情熱を感じます。




てなわけで(?)
今日は基本講座の最後です。







さて、サッカーでも日本を特徴付けるのは組織力での戦い方。
その為にも多様性を争うことなく発揮できる環境がイノベーションには求められます。



ただ、経営トップは口ではイノベーションを求めながらも
実際はリスクを恐れ、せっかくの芽を摘んでいるのが現状です。
(イノベーション・ジレンマ)
リゾームの目的は、相互の関係性(プロセス)構築であって、
創発やイノベーションが起りやすい環境を目指すこと。


よって、思考イナーシャ(慣性)による一方通行型や
1+1を積み上げる階層的な手法では成り立ちません。

また、そのプロセスとは情報伝達の際、
受け手が感じ、編集したものをつまびらかにできる事。


つまり伝達→編集→伝達だけでなく、
それが非連続性になっている状態を指します。



進歩自体はある一定の軌道を描きます。
しかし、新しい技術は既存の軌道上にはないのです。



経済学者であるシュンペーターが
「馬車を何台つなげても汽車にはならない」と言ったように、
建前の意見を何度つなげてみても本音にはなりません。



余談ですが、脳のネットワーク伝達は、シナプスの
一方通行の情報伝達だと言われてきたのですが、
最近の研究では、自己回帰性情報伝達だという説もあります。


シナプス伝達も編集からの再構築です


閑話休題。
さてさて、組織には4つのマネジメントタイプがあると言います。
それは独裁的権威型と温情的権威型、
そして相談型、最後は参加型です。


創業者が健在な組織は「独裁・温厚型」だといいます。
これは創業期のエネルギーから考えれば納得ですよね。


アップルは独裁的権威主義でしたが、
晩年、ジョブス氏は新しい組織理論を考え続けていたそうです。

それがリゾーム的なものかどうか分かりませんが、
自分がいなくても機能する組織だったのは間違いありません。
(でなければ新しい独裁権威者を育てるはず)


つまり、独裁的なトップが「いなくとも」回る組織。
ボトムアップから継続したイノベーションを起こせる組織。


unreveは自立・自律・自己組織化に加え、
散逸と方向性(ポジティブ・フィードバック)が必要だと考えます。
(記事が消えちゃったんで和田さんから引用)



ちなみに参加型は一番理想的だといいます。
ではどうやってその参加型の「仕組み」を作りだすのか。


これ以上は基本講座から外れますので
続きは「リゾーム応用講座」ということで(笑)


「ビビビッ」とアイデアが降ってきたおかげで完成しました。
どうでっか、試してみたい企業さん、いまへんか。
今ならお値引きしますどすえ(笑)




☞ ☞ ☞



イノベーションは、その内容から考え、
どうしても既存形態を破壊するイメージがあります。


だから安定を求める所からすればリスク要因なのです。
リゾームもそう、せっかくキレイに系列化した組織を
一旦バラバラにするなんて真似は怖くてできません。


ただ、これらは実際の破壊ではなく、言わば
企業の生存を脅かすような潜在的脅威があった場合の
「転ばぬ先の杖」です。



そんな時に旧来の慣行をスムーズに変化させ、
新しい行動様式を創造する事ができる、言わば「意思決定論」なのです^^




「応用まで書け!」という方は
office unreveの公式ホームページ も、ぜひ一緒にご覧ください!


2014/07/12

リゾーム構造基本講座②

こんばんわ、unreveの坂口ですo(^▽^)o
前回に引き続き、リゾーム基本講座、2回目です。





さて、unreveは脱マネジメントであるリゾームを提唱しています。
従来の階層型からくるリーダーシップではなく
階層を超えた意見を交わす場の創造です。



そこで大事なのは個人の価値観ではありません。
(価値観が必要ないという意味ではなくて)



必要なのは、価値観ではなく「方向性」です。



ここからその根拠を説明しますが、
今回は、「方向性」だけ理解できれば見なくても大丈夫です(笑)



☞ ☞ ☞


そもそも人間関係の問題を聞けば、意見が違うとか
価値観が違うということが原因となっていますが、


意見や価値観の違いは対立の要因ではなく、
価値観を統一したいという「思惑」が原因です。


例えばカップルや夫婦が別れる理由に
「価値観が違ったから」というものがありますが、
価値観が全く同じ人なんて、この世の中にはまずいません。


まったく同じ家庭環境で育ってきた兄弟でも性格が違うのに
それを「他人に求めてしまうのが問題」であって、



その作られた常識を一度チャラパーにして
下地(風土)から作ります。

方向性を決め、場を作り、間拍子(リズム)を合わせ、
必要に応じ、あそびとゆらぎの加減を都度取り入れる、

プロセスが流動性である以上、概念ベース。
また、unreveの立ち位置はニュートラルです。


☞ ☞ ☞



リゾーム構築において、各自が
「根茎(リゾーム)の目的」を知る事から始まります。


そもそもリゾームとは縦横無尽で掴みどころのない
「状態」を指しているのですが、観察すれば明確な方向性があります。



それは「幹や茎を固定する為」です、
固定する為の方向性がそれぞれ異なっているのが分かります。



つまり一見、縦横無尽、勝手気ままな行動に見えるのですが、
実は一つの明確な目的に向かって、それぞれが行動しているのです。



土の上に出てしまった根っこなんてありません、
抜けないように地中深く伸びるか、柔軟性を出すために横に伸びるか、です。


全体を見れば、土を境界とした
フラクタル構造(相似)だということが分かります。


面白いですね、上である枝葉(リーフ)も
下である根茎(リゾーム)も、大地を境に広がっているのですから。



リンゴのように「上」で実をつける場合もあれば、
種イモのように「下」で実をつける場合もあります。

実に神秘的だと思いませんか^^?





ちなみに、これは宇宙の大規模構造とよばれるものです
中心の部分から対象的に広がっていますよね。



これは創造のプロセスである圧縮と膨張、
概念からの創造は全てこれで説明できます。
��無から有へ)


ℂunreve


また、ゲノム解読から分かったという、
発生と進化の関係性を定式化した「発生砂時計モデル」。



ℂRIKEN, Japan



構造のフラクタル、これがリゾームの基本概念です。
根っこや枝葉(価値観)はどこを行ってもいい。
逆に、根っこが全部、同じ方向に向かっては大変です。



目的を果たす多様な枝葉や根茎と、
それを支える一つの幹(あるいは境界)。



その幹の部分が理念やビジョン、経営哲学であり、
それを本音として確立させ、浸透した状態がリゾーム構造です。



それらがあれば、あらゆる人事制度を導入する際、
一貫した整合性を取ることが可能です。


次回は最終回です(^O^)/


To Be Continued
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