2014/07/14

陰陽の役割を知る

「形而上のもの、これを道と謂い、形而下のもの、これを器と謂う」
これは老子の道徳経である。


形而上とは普遍であり無形である。
近代は、形ある物によって無形である道を実現しようとする。
つまり科学は形式主義である。


道を知らぬものは(非道・外道・邪道)は
今でも使われている言語だ。



なるほど、現代は非道・邪道・外道の世界、
それを自己正当化する、自我の暴走世界である。


近代技術では精神を救えない。
近代医療で肉体を治す事はできるが、魂は救済できない。


科学で心の病は治せない。
技術で人の心は動かない。


そんな当たり前のことを忘れている昨今、
今回はそんな小話。



☞ ☞ ☞


無形である道とは、「無い」のではない。
道とは形へと「変化する以前」のものである。



そしてその変化には、普遍的な法則があるのだ。
例えば、春夏秋冬は必ず起こる。



つまりすべてのものは変化するが、
その「変化そのものにある普遍の法則」が隠れているのだ。




例えば季節には役目がある。
春や夏には植物は盛んに成長する「陽」の季節だが、
秋と冬は枯れる「陰」の季節である。



その陰陽の季節が互いに呼応し合い、
活かし合うことで、持続性を保っている。




これを継ぐ者は善なり、これを成す者は性なり。
仁者はこれを見てこれを仁と謂い、
知者はこれを見てこれを知と謂い、
百姓は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮し。




上記は仁者や知者(原理を知る者)は
この陰陽に善悪を付けず、農家の人はこの
道理を日々の生活の中で実践し、無意識に感じていると言う意味だ。



道を知る者はすなわち道理(原理)を知るもの、
本質を見る目を養うとは、この見えない道理を知ることである。



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やがてそれは形となり目に見える「器」になる。



器とは、我々の身体によって現れる行動や言葉であり、
このような「器」を通し、我々は「道」を学ぶ。



現在、「幸せ、楽しい、楽、便利」と
陰陽の「陽」ばかり欲しがっているが、



それは原理を知らない証拠でもある。
私だって寒い日は嫌だが「冬が無くなればいいのに」とは思った事が無い。



つまり陰の側面を「どう感じるか」が問題なのだ。


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