2014/08/04

窓際のジッドちゃん

ども、unreveのグッさんです。





今日夢の中で「ジッド」という言葉が出てきまして(笑)

アンドレ・ジッドの作品を読んだのはずいぶん昔、あまり記憶になかったんですが・・・( ̄_ ̄ i)???





まあ、これも記事にするのは面白いと思ったので

勝手に書いてみます(いつものことです、スイマセン)



さて、読んだ記憶のあるのは、代表的な「狭き門」とか「法王庁の抜け穴」とか「贋金つくり」ですが、古本屋に全部売っぱらったんで、思いだしても「無償の行為は・・・」しか思い浮かばない(笑)





ただ、ジッドは「自分が自分である権利」というのにかなりこだわっていたような。



若い頃のジッドは、結構なナルシストで、

自分で日記を、それを観察することに夢中になってたんですよね。





つまり「自らを読む」という、語り手でもあり、受け手でもあった。

まるで最近のグッさんのやってる事みたいです( ̄∇ ̄+)レベルハヒクイヨ





また、ジッドがしきりに言ったのは「共感」という自分と他人の共存の在り方。

同じものを共に見る事ができれば人は理解しあう事ができる」と言ってます。

(だいぶ切迫した、ある種の強迫観念に近いのですが・・・)



共感とは言葉だけが一人歩きしてますが、

集団によってはちょっとずれてます。





その「ズレ」の部分を僕なりに推測してみます。

あくまでも個人的な意見なので盲信なく、です(・ω・)b





さて、僕らは共同体の共通感覚(空気)を読みながら

それに付随するように言葉を使用する、という習慣があります。





だから、その枠を超えた評価ができなかったりします。

言ってみれば「村社会」の共同性です。



会社というのも一つの「枠」として存在してますし、

全てのコミュニティはこういった「見えないけれど制限された枠」がある。



枠に自分の価値観をはめ込んでみても、

ネジ穴に針を入れるようなもんで、ピッタリとは固定しません。



そもそも人の価値観っていうのは簡単に言えば「自分の好き嫌い」であって

長い人生を生きてく中での「これは好き~」と「これ嫌~い」の取得選択の結果生まれたものです。





一人一人が違う「枠型」を持っているので

共感とは言ってみればその「枠型」を理解しないと始まらない。



そう言った人と違った考え方、見方を理解しなくてよい「コミュニティ内での共感」、

そんな気がします。





日本人の意思伝達とは、分かってくれる人だけの「限定会話の成立」をコミュニケーションと感じているのではないでしょか?





やりとりが下手なのは政治家の外交をみれば明らかなんですが、 協調なのか従順なのか分からない感じです。





協調=全てが同じ、じゃないですよ、だって画一化って人間性の欠如ですから。
逆にそんなのが協調なら、集団に属していても心は孤独です。



また、共感とは心の動きであり、相手の対象全てに共感はできません。







例えばグッさんは食べるのが大好きです。

デパ地下のお惣菜なんか見るとワクワクします( ̄∇ ̄+)テラヤバス





「ここの●○が美味しいんだよ」と友人に伝えるとします、しかしその友人は以前食べてあまり美味しくなかった。





「そうかな?そんなに美味しくないと思うけど・・・」と言った場合、

僕は自分が好きだから好みとして伝えてるですが、中にはそこで「なんで?」と言う人がいます。





「そんな訳はない、ここの●○はこんな味付けでこんなに新鮮でこんなに・・・・」と、





それが美味しい(正しい)と言う事を相手に認めさせるのが基準の会話です。



それがエスカレートすると同じものが好きな人を集め、多数派となったりします。





何が言いたいかというと、自分の気持ちが相手に伝わらない事への悩みの原因が、自分の「美味しい」に対する判断が、ただの好き嫌いなだけなのに「全ての人が認める事実」じゃないのが納得できないからです。



「全員が同じ判断をする訳がない」という基本原則が村社会の日本には欠如しています。

これが心に根付いていないから他人を認める事が難しいんです。





結果、価値観の違う人を排除するという方法や、多数決=民主主義みたいな勘違いが起きます。





右へならい従うか、真逆の位置として反対・批判者になるか、

ずいぶん極端な選択が多く、受容の幅が小さいままです。





僕はよく「自分中心で行こう、小さな自分の価値基準を大事にしよう」と言ってますが、

内部と外部の違いを理解していないとさっきの言葉が「言ってる事が違うじゃねーか」になります。





寛大さは美徳です。「周りに我慢できない人は、だいたい自分にも我慢できない人だよ」とどっかの本に書いてましたが、僕もそう思います。





まとめると異常な画一化、非個性化が幸福だというのは、比較対象を奪い、幸福だと信じこませられているだけで、それは孤独から生まれたコミュニティの帰属に対する一時的な欲求なだけです。





ここでの比較は「個性の比較」であって、比較から来る競争原理ではないです

上記の様な幸福が、希望と信頼と「無知」によって作られているという事実をジッドは批判したような気がします。





ここまで書いても、なんで夢にジッドがでてきたのか皆目見当がつきません(笑)

もしかしたらシド・ビシャス・・・・なわけないですね。





取りとめのないテーマでしたね(本当に)

ではでは、また次回。



Bless youアップ


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