2014/10/07

感覚秩序

在り方とは「心」の持ちようである。
それは「心身一如」である日本人にとって馴染みが深かった。


ただその心とは身体的な振る舞いのルールに左右されず、
独自の精神世界を構築している訳ではない。


また、そこを起点とし自己を含む環境を外部から
客観的に把握することというのも無意味である。


このような「外部からの環境把握」を可能とする、
一種のデカルト主義的な認識を、我々はしばしば抱いてしまう。



ただ「我々の心がルールを作った、故にそのルールを認識できる」、
というものではなく逆である。


この「ルール」こそが、心の在り方を促すのだ。



人は考える前に行動し、行動してからでないと理解しなかった。
言わば「理解」とは、行動を助けるパターンといった「環境の反応能力」なのだ。



例えば火を一番最初に触った人間は火の距離感を理解する。
「触ると火傷する」という言語が生まれる以前の反応は、その「パターン」だ。



つまり一義的において経験から学ぶ、ということは
我々の理性的な行動プロセスというよりも、
一般化した実践を伝える「保守的な過程」だといえる。



つまり成功に繋がった過程は始めは知識として形式化しておらず、
ルールを伴った実践の中でのみ、理解され守られるのだ。



精神的なルールとは理性や知性の産物ではなく、
「そのルールに従った者」が他者よりもより上手く成功すると理解された結果、



逆に我々の行動をその「ルール」が支配するようになったのだ。



ハイエクは集団における行為(行動)の規則性(ルール)が、
経験と共に進化すると同時に「理性」も進化すると考えている。
※ここでの進化とは「変化」と同義。



言わばデカルト主義者が説く
「外部環境を支配している法則の支配」という設計・合理主義に反対し、



具体的な行為の規則性(ルール)の進化によって、
我々の行動は自由度を増し、理性もそれに付随すると考えているのだ。


その自生的秩序のベースになっているのが「振る舞いのルール」であり、
また、その体系は外部の法則性の把握でなく「思考錯誤の蓄積」に繋がる。



社会全体にもそれが当てはめられる。
ラディカルな集団のルールは外部にあるのではない。



それはすでに目の前にある。
それが今までの経験を得て蓄積された集合知の結晶なのだ。



よって「理想的な振る舞い」とは各自が合理的に考えた結果ではなく、
むしろ無知な状態から集合知を活用した結果とも言える。



明示的な指示がなくとも、形式化されたマニュアルがなくとも、
我々は迷うことなく適切な行動が取れるのは、この蓄積された「ルール」があるからだ。



ハイエクはこれをカタラクシーと呼んでいる。
それは敵対するのではなく共通の枠組みの中で相互の利益を調整する役割である。



感覚の秩序はこのように形成される。
否、形成されているというべきか。



それを道徳心と呼ぶのか、はたまた倫理観や善意と呼ぶかは様々だが、
この内在した先人たちの思考錯誤を、我々は無意識に活用している。
��神を伴う原始宗教はここではあえて触れない)



だからこそ、古き良き、善良な市民という言葉を
ノスタルジアとしているのだろう。



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戦時中は自殺率や国内犯罪率が圧倒的に下がる。
これは逆を言えば今の社会システムが「不自然」な証拠でもある。



人工的な秩序はどうしようもなく不自然だ。
区分や階層といった分類によって優劣性や二項対立が生まれ、
数学的、合理性、理性といったものが支配していった。



本質である多様性に人為的な仕切りという秩序をもたらし、
我々人間と自然は、ますます乖離を深めていった。


これでは権力からの解放や自由ではありえない。
むしろ逆に不自由な檻の中にいるようだ。


よりマネジメントを洗練化し、合理的に捉え、
無駄をなくし、支配するという一方通行の理性による秩序。



度々書くが、「我々の心がルールを作った」のではない。



物質世界には必ず限界(臨界)点というものが存在する。
この世界がカオス状態である以上、この現象は避けられない。



自然運動が円環螺旋である反面、
人工的とは対極を交互に繰り返す、振り子運動なのだ。

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