2016/11/17

自然派生、自己中心の「真心」について①




今日は古事記について。
さっきまで神勅について書いてたから
宣長モードになっちゃいましたんでね(笑)





まあ、お暇な方だけごらんください(゜゜)














さて、儒教から派生した垂加神道では、
形而上的な力である「理」を神としてます。



それが陰と陽の二気に分かれることで
世界は作られてる、と。ご存じ陰陽二元論ですね。




日本書紀の神である国常立尊も
彼らからすれば「理」であって、それ以外は
陰陽五行によって生まれていると言うんですが、
宣長さんはそれを否定しているんですな(゜゜)






「いや、それお前らの都合だから」





人間には存在論的な意味や
根拠を知ることはできない。




これが宣長さんの出発点である
奇異(くすあやし)き、神の御所為(みしわざ)ってやつです。
ファイマンさんも同じことを言ってますね。




これを「ありのままに受け入れる道を選ぶ」のが
古来の惟神(かむながら)の道です。



主体的に」神に任せ、
「受動的」な状態で「真心」に生きる。



この矛盾を統合した在り方が
「自ら」と「自ずから」である自己中心、
それは七つの習慣のような科学の側に
無意識に立っている自分を再認識し、
世界が限りなく不可思議な世界であると諦め(明らめ)ることです。





  過去動画「自己と主体」




てなわけで、
宣長さんは僕ら人間が知ることができるのは
具体的な事実、そして実物(結果)だけであって、
その背後の意味や根拠は神の領域だとしたんですね。




「なぜ」かは分からない、解るわけがない。
分からないけど、幸福を志向しているのは
間違いないと、確信したのでしょう。






長くなったので、続きます(゜゜)






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