2016/11/18

自然派生、自己中心の「真心」について②





前回に続き、二回目(゜-゜)
引き続き、見えない世界に触れて見ましょう。





「見えるか」 「見えません」
「見えるか」 「見えません」
「見え・・・」  「・・・ませ・・」






てなわけで宣長さんは今の現実は
ただの結果であって、その背景や根拠は
知ることができないと断言しました。




垂加神道や因果応報を批判したのも
朱子学や仏教の宗教批判じゃなくて
そんな人の智恵(↑)で世界を意味づけたり
秩序立てたり、説明したりすること自体を批判しているんですな。




平田篤胤はここを間違ったから、神仏習合を
断ち切って排他的な国粋主義(国家神道)になり
宗教弾圧が起きたわけです。




じゃあ、なぜそんなことを
やってしまうかっていうのが
何度も出てくる「漢意(かなごころ)」です。



我々は自意識がある限り、過去と未来と
現在を生きますから、必然的に
「お先真っ暗」の状態を恐れます。




つまり永遠のif、
「もし○○になったらどうしよう」です。
だから理性(漢意)で構造化、予測することで
結果を前もって獲得しようとするんですね。



科学の数式、宗教で言う厳しい修行、
コンサルのノウハウや自己啓発団体の
「自己イメージを変えましょう」もそうでしょう。



もちろん、心を無視して正しさの方に
無理矢理合わせれば、エレガントな「構造」にはなります。



そりゃそうです、矛盾がありませんからね。
人はそのスッキリした「明確さ」に惹かれるんです。



しかしそれは広大な経験世界から
合理的ないち結果だけを選んでるだけに過ぎない。



世界に詳しくなっているのではなく、
世界に細かくなってるんです。



さらに言えば、それを知ることで
「他人より優位」に立ちたいと言う
心性もあるでしょう。



人に教えを説いたり説教したい人が
これだけ溢れてるのも、それが自意識にとって
非常に快感がある。だからやみつきになっているんですね。



その根底にあるのが自意識の大好物である
支配欲や権力欲と言った優越感。
故に、それをやればやるほど、漢意に染まっていきます。




昔は愚かな男の条件だったんですが、
今は女性も増えましたね(゜゜)←敵作った



☞☞




宣長は古事記を解読することで、
神々の心の在り方はすでに与えられていると確信しました。



「人はみな産巣日神の御霊によりて生まれつるまにまに
身にあるべきかぎりの行はおのづから知りてよく為る物」。




それが生まれつき与えられた大和心「真心」、
僕はここに答え(らしきもの)があると思ってます。



ありのままの真心とは神の模倣、
故に修正不要であって、その素地の純粋性さえ保てば
あとは勝手に成熟していくってことです。



☞☞☞



ただ、それは今の時代では
めっちゃ難しいんですね。
僕を含め、やってる人を見たことがない。


人目が気になるし、
直感が来ても合理損得で動いてしまう。



「これやるとみっともないよな。。。。」と。
世間体を気にするから、乱れる心をつい
抑制し、勝手に納得させてしまいます。



逆もまた然り、「素直な欲望」と思ってたら
実は「世間に刷り込まされたもの」だったり。



常識を疑わないと、そうなっちゃいます。
それは即ち、自分を疑う事でもあるんです。




実はそんなに好きじゃない、
実はそんなに嫌いじゃない、
実は努力したり、我慢したい。
実は特に夢もなく、何も欲しくない。




そんな「実は」ってやつが実体じゃないですかね。




「後記」




「真心」はそうした我々の本性を
素直に反応し、動くさま。故に
「無私」と繋がると個人的にそう思ってます。



とは言え(笑)「真心」を断言できるほど、
僕は信じることが出来ないのもありますね。
まだふわふわしている。だから「答えらしきもの」です。



例えば宣長の言う理性の秩序の否定も
見方を変えれば「より精密な秩序が存在している」
ということの信仰かもしれませんよね。



無私ってやつの「無」の定義もそう。
ないかもしれないけど、あるかもしれない。
それは分からないけど、分かるという可能性を
否定する気はありません。



まあ、これも僕の理性ですけどね(笑)
やっぱ、ここは難しいな~。






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